谷崎潤一郎「肉塊」 痛々しい男、吉之助と一途で健気な妻 民子

谷崎潤一郎の小説「肉塊」の主人公、吉之助の痛々しさと一途で健気さが尊い妻民子のお話です。

谷崎作品は、谷崎自身と家族や友人を登場人物のモデルにすることしばしばあるようですから、それを思うと実在感を持って読んでしまう時があります。

「肉塊」の物語と背景

幼い頃、芸術や芸術家に憧れを抱いたものの、妻と娘との平凡だけど幸福を感じる日常を過ごす小野田吉之助。

そんなある日、深い繋がりのない知人でアメリカで映写技師をしている柴山から送られた手紙をきっかけに、柴山と共に映画制作にのめり込むことになります。

一度は諦めた芸術を、映画制作というかたちで実現することに情熱を注ぐ吉之助ですが、

理想の女性像を表現する女優として起用した素人で混血の美少女グランドレンに翻弄されて、それまで築いてきたものを失うことになるのでした。

谷崎が「肉塊」を発表したのは大正12年(1923年)1月。

大正9年(1920年)大正活映という映画制作会社の脚本部顧問に招聘されて、それを機に小田原から横浜に転居します。

構想を練りに練った本業の小説を中断(そして未完)させてまで映画制作にのめり込んだそうです。

現代小説全集 谷崎潤一郎集、著者近影 大正15年出版
国立国会図書館デジタルコレクション

自身が関わった映画 第一作目「アマチュア倶楽部」には妻の妹せいを主役に抜擢します。

せい は西洋人の様に彫りの深い顔立ちの美少女で、西洋人美女崇拝者の谷崎は妻の千代と別れて せい と結婚することを考えたそうですが断られます。

大正10年(1921年)大正活映が芸術路線の作品制作をしないことになると谷崎は映画制作から手を引きます。

谷崎が実現したい映画は幻想的で耽美な世界観だった様ですが、大衆が映画に求めているのは娯楽でした。

この2年後「肉塊」が発表されます。

この大正12年は9月に関東大震災の起こった年で横浜の自宅は壊滅し、関西へ転居しますが、それは取り敢えず置いておきます。

「肉塊」の物語は映画制作に情熱的に取り組んだ経験が下敷きにされているのですね。

物語の中で吉之助が最初に取り組んだ作品は現実には存在しない人魚をヒロインにした映画でした。

登場人物も主人公 吉之助は谷崎自身で、妻民子は千代、グランドレンは せい がモデルと言われてます。

もしかしたら映写技師の柴山は「小田原事件」(大正10年)をきっかけに絶交状態にあった親友の作家の佐藤春夫でしょうか。

一途に夫に尽くし、夫の設立した映画制作会社を必死に盛り立てようと頑張る妻 民子の苦労を知っている柴山は民子と共に吉之助の去った会社を一緒に支えて行くのです。

もっとも物語の中で二人が結ばれることはないのですが、それは現実にも佐藤春夫と千代が結婚するのは「小田原事件」の10年後のことだからでしょうか。

『人魚の嘆き・魔術師』 春陽堂 大正8年出版 挿絵 水島爾保布
国立国会図書館デジタルコレクション  

妻 民子という女性

ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー 白い着物の少女 1894年 アムステルダム国立美術館

民子はどんな辛い時も夫 吉之助を支えます。

それは妻だから仕方なくとか、妻たるものの当然の務めとかではなく、吉之助を深く純粋に愛しているからです。

どんなキャラクターなのか「肉塊」の文章を借りて記すと、

素直で、生まれつき人懐っこい性格の民子は、夫から「孤独な俺にはお前以外味方がいない」と言われれば、6・7年前の新婚当時の気持ちを蘇らせ感謝しないではいられなくなる。

6歳の娘の母親であるのに、夫に対して、無邪気で若々しい愛情を持ち続けているのです。

そして映画作りにのめり込む夫を理解しようと一途に従って、一緒に楽しもうと考えるのです。

映画制作が始まれば、民子はスタッフや役者たちに気を配り、少ない資金と生活を管理し、撮影で使用する衣装も作成します。

全ては夢を実現しようと輝いている愛する夫のためなのです。

だけど夫 吉之助は映画制作の過程でグランドレンとの肉欲に溺れ、

やっとのことで完成した映画は酷評を頂き買い手がつかず、

会社は起死回生の二作目に取り組むのですが、グランドレンと一緒に撮影をほっぽり出して自身の設立したスタジオを去って行きます。

映画は柴山の指揮のもと制作は継続されて、柴山の推しでグランドレンが演じるはずの役を民子が演じて完成します。

その映画は大ヒット、女優 民子は大いに注目されることになるのです。

柴山は立て続けに、民子を出演させた映画を制作して、瀕死のスタジオの財政を潤わすことになるのです。

民子はスタアとしてカメラの前に立ちながら、スタジオを切り盛りします。

そこには一切の功名心はなく、いずれ心を入れ替えて夫が戻ってきてくれる日を待っているのです。

なんとも可愛らしく一途で、いじらしく、尊い女性です。

民子のモデルは谷崎の当時の妻 千代だそうです。

千代は良く夫に尽くし、気難しい谷崎の生活を完璧にこなした良妻賢母な女性だったそうですが、谷崎は悪女型の女性を好んでいた為、千代を相当邪険に接し時に暴力を振るうこともあったとか。

それでも自身の両親から愛されていた千代の美点を認めていたそうです。

後に佐藤春夫の妻となる千代は谷崎と過ごした日々をどう思っていたのでしょう。

吉之助の鬱々とした心情

ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー 石膏マスク 
アムステルダム国立美術館

エドゥアール・マネは、

「芸術とは一つの輪。出生の偶然により、人はその輪の内側か外側にいたりする」

と言ったそうです。

マネが絵描きになったのは偶然にも”芸術”という輪の中に居たからということなのでしょう。

まぁそれだけでは絵描きにはなれないでしょうけど、生きてきた環境が人生に影響を及ぼすことはあるでしょう。

小野田吉之助は美しいもの、芸術的なものに憧れる繊細な子供でしたが、芸術の輪の外側に身を置く人間だったということになるのでしょうか。

退屈な日常から飛び出して行きたいと思いながら、その想いを遂げることが叶わなかったのです。

芸術に憧れる要因の一つは、生まれ育った横浜という街にもあったのでしょう。

この物語の時代、横浜は日本の他の街と違って外国人や外国の文化のあふれる煌びやかな街。

でもその煌びやかさは憧れと幻想を抱かせても、その輪の中に吉之助を招き入れてはくれなかった。

芸術に憧れる少年の手を取って導いてくれる人は身近には誰も居ず、能動的に行動するきっかけもなかったのでしょう。

結婚して子供を儲け、平凡だけれど幸せな日々を過ごす吉之助ですが、芸術や美しいものに対する憧憬は静かに燻ったまま残っていたのでしょう。

ある程度年齢を重ねた頃にようやく映画という芸術を創作するきっかけを手にすることができた時、子供の頃抱いた夢幻の世界を現出させようとしたのでしょう。

その夢幻に登場する美しい女性像は、”肉体”を伴ったグランドレンという存在に帰結することで、芸術への憧憬は打ちのめされることになるのです。

ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー 鏡の中の写真家と裸の女性 1890-1910年
アムステルダム国立美術館

吉之助は、ルックスはこの世のものと思えない美しさを備えるも、どうしょうもない阿婆擦れな不良少女であるグランドレンとの肉欲に溺れ、もう芸術どころではなくなっていく自分を止められなくなり、

お仕舞いは妻 民子の純真で凛とした精神にとどめを刺される状況になるのです。

民子自身はそんなつもりはなかったのに・・・。

柴山の勧めでグランドレンが放り出した役を務めることを決意した妻 民子は、役の為の派手な衣装を纏っていても、純粋さ、上品さを湛えていて、内面からもたらされる、凛とした信念と決意は美しく、吉之助はその眩しさに絶望的敗北感を抱くのです。

「やっぱり自分は凡庸な人間だったのだ」

「藝術などは自分の柄になかったのだ。幼い頃に抱いていた夢の国だの、美の幻影だの、あの空想は何だったのか。唯淫慾の変形だったのではないか?」

「肉塊」を読んでみて個人的に思うのは、この物語を痛々しく思いながらも愛おしく感じるのです。

それは民子の尊すぎる人物像に感銘を受けたのかもしれないです。

そして何よりも鬱々とした吉之助の芸術に対する心のありようが、

まるで自分のそれに重なってくるものを、自分のことを指摘されている錯覚を覚えてしまうからでしょうか。

この陰鬱でみっともない人物をいじらしく思うのです。

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