2022年2月から5月にかけて、三菱一号館美術館で「上野リチ:ウイーンからきたデザイン・ファンタジー」という回顧展が開催されました。
正直、どんな人なのか知りませんし関心もなかったのですが、クリムトやシーレやココシュカに縁のある街で生まれ、芸術を学び、生涯に渡りたくさんの「かわいい」を創作した女性デザイナーなのですね。
それにお名前が日本人っぽい?、・・・ウイーン出身の人なのですが、日本人男性と結婚しました。
旦那さまが日本人という以外にも、色々日本に縁のあった人の様です。関心が湧きます。
- 上野リチについてパブリックドメインで使用できる画像を見つけられませんでした。(おそらくご本人が亡くなられて70年を経過してないことも理由の一つではないかと思われます。)その為当記事は”ウィーン工房”でパブリックドメインで使用できる画像を添えております。
リチはどんな人?
1893年、後に「上野リチ」と名乗るフェリーツェ・リックス、愛称リチ は4姉妹の長女としてウイーンに生まれます。
裕福な家庭で、父ユリウス・リックスは手芸用品や礼装用小物を販売するビジネスマンで、後にウイーン工房の経営に参加します。
またリックス姉妹の祖母はかつて人気の化粧品ブランドを立ち上げた女性だったそうです。
そんな環境で育った4姉妹ですから、自然と芸術への関心と芸術的素養を育まれ、4人ともデザイナーや写真家、造形家とクリエイティブなことを仕事としたそうです。
1910年、17歳の時、帝国立グラフィック教育・研究所の非公式生徒としてデッサン等美術の基礎を学んだ後、
19歳の時、かつてクリムトやココシュカを輩出したウイーン工芸学校に入学します。
リチはここで、テキスタイル、七宝、彫刻、建築を学びます。
1917年、24歳の時、ウイーン工芸学校を卒業、工芸学校で建築クラスで教鞭とっていた建築家ヨーゼフ・ホフマンの強い勧めでウイーン工房に参加します。
ウイーン工房では芸術家工房に所属し、テキスタイル、ガラス、七宝などのデザインを手掛けます。
リチの少女時代は、芸術に関心を抱いたとしても女性が芸術を学ぶにはなかなか困難な時代のようです。
授業料の高額な私塾を除けば、芸術の公的養成機関は1920年代までは女性に門戸を開いてなかった様です。
それでも工芸等の手仕事のための職業訓練や、裁縫や刺繍のような中上流家庭のお嬢様の身につけるべき教養の教育機関として工芸学校は早くから女性の就学を受け入れていたそうです。
ウイーン工芸学校では優秀な生徒には在学中からウイーン工房や他の外部の会社の仕事を積極的に受けることを勧めていたそうで、リチも在学中からウイーン工房の為に製作をしていた生徒の一人でした。
リチが工芸学校を卒業してウイーン工房に参加した頃は、第一次世界大戦(1914ー1918年)の只中で、男性は戦場に取られたこともあって、工房は多くの工芸学校を卒業した女性が参加したようです。
リチの職場 ウイーン工房とは
ウイーン美術界の古い体質からの離脱を宣言し結成された「分離派」の参加者である、
建築家・デザイナーのヨーゼフ・ホフマンと
画家・グラフィックデザイナーのコロマン・モーザー、
繊維と金融業で財を成した実業家フリッツ・ヴェルンドルファーの3人が1903年に設立したのがウイーン工房です。
職人とデザイナーの共同開発によって生み出される製品は、
「”用と美” 生活と芸術の一体化」
という理想を目指し、建築(外装、内装)から家具や食器等の日用品、アクセサリー、陶磁器、金銀細工、製本など複数の工房システムを確立させます。
その理想は素晴らしいと思えるものの、この工房で誕生する製品は庶民や貧乏人には「高嶺の花」です。顧客は専ら富裕層でした。
裕福でなくても手にできる製品はポストカードとカレンダーくらいだったそうです。
そのポストカードとカレンダーの絵を手掛けた画家たちにエゴン・シーレやオスカー・ココシュカも参加しています。
商業的には成功を収めたものの、工房は設立時より財政は厳しく、放漫経営な面もあったとか。
パトロンのフリッツ・ヴェルンドルファーが経営から手を引き、次の支援者が現れるのですが世界的経済が悪化して工房設立から30年後の1932年破産申告解散に至ります。
1910年開設されたテキスタイル部門と翌年開設されたファッション部門は財政難の工房にとって大事な財政再建プランだったようで、第一次世界大戦集結の1918年にレースやテキスタイルを販売する店舗を新たに開店します。
この店舗のレース販売室の天井画のデザインをリチが担ってます。
この服飾に関する部門で女性デザイナーたちの感性が必要とされ徐々に彼女たちの活躍の場が様々なジャンルへと広がっていったそうです。
リチもテキスタイルとファッション部門を中心に、精力的に活動し、当時工房で活躍する多くの女性アーティストを代表する一人となります。
リチとウイーンとジャポニズム
1924年、リチ 31歳の時、ヨーゼフ・ホフマン建築事務所に入所した日本人の建築家 上野伊三郎と出会います。
相性抜群だったのでしょうか、出会いからわずか1年で二人は結婚します。
さらに翌年に夫婦で伊三郎の故郷、京都へ渡ります。リチ初来日です。
リチはウイーン工房に在籍したまま1935年まで京都とウイーンを行き来して仕事を継続します。
1930年37歳の時にウイーン工房を退職して、活動の拠点を京都に移します。
その2年後、ウイーン工房は破産して解散します。
ウイーンと日本の芸術の出会いの歴史は、
日本とオーストリアの国交が始まったのは1869年、その4年後に開催されたウイーン万博がウイーンでの”日本ブーム”の始まりだとか。
この1873年、明治6年のウイーン万博は、日本が明治政府として初めて参加した万博でした。
日本会場の入り口には、金のシャチホコが施され、日本庭園、神社、鳥居、茶室が造られて、日本から派遣された大工さんたちの仕事ぶりが評判になったそうです。
日本館は多くの人々が訪れ盛況だったようで、オーストリア皇帝と皇后も訪れ、日本の職人芸や工芸品の素晴らしさに賛辞を惜しまなかったそうです。
ウイーン万博後、日本とオーストリアの間は、人や物の交流が活発になり、オーストリア の皇太子が日本を訪れたり、ウイーンに日本の着物や陶磁器等を扱う骨董店が現れたりしたそうです。
欧州の国々の何処とも違う”異国”趣味的な日本ブームではある様ですが、クリムトや のちの分離派の芸術家たちに及ぼした影響は大きいと云われてるみたいですね。
ウイーン万博の日本館を訪れた人々の中に、芸術・産業博物館(現、応用美術館)の館長もおりまして、
「日本はこの万博で、突然注目されることになった。これが一過性の人気で終わらず、日本の美術が我々の血肉となることを願う」と言ったそうです。
ロンドン、パリ、ウィーンと欧州の人々は日本の美術の何に魅入られてしまうのでしょうね。
リチが学んだウイーン工芸学校は芸術・産業博物館の付属機関です。
ウイーン万博の日本館で展示された展示品の殆どは、芸術・産業博物館に収蔵され、またハインリヒ・シーボルトが収集した8000点の染型紙も移管されてます。
工芸学校の生徒はこれらのコレクションを教材として閲覧できたそうです。
リチは活動拠点を京都に移す
1930年(昭和5年)37歳のときにウィーン工房を退職後も変わらず欧州でも活動しますが、活動拠点は京都に置きます。
日本国内では、1926年(大正15年)に夫 上野伊三郎と共に開設した上野建設事務所で、夫が建築部門、リチが美術工芸部門として内装・装飾を主任、夫婦で建築と装飾を総合的に手掛け、ホテルや商業施設の壁面装飾に携わります。
1935年(昭和10年)42歳、京都染織試験場図案係に技術嘱託として着任
翌年夫が群馬県工芸所(現群馬県立群馬産業技術センター)の所長に就任するのに伴い、同所嘱託となります。
1939年(昭和14年)第二次世界大戦勃発の年、陸軍嘱託建築技師に任命された夫と共に翌年まで満洲に滞在。
リチが京都を活動拠点とした辺りから世界はきな臭くなってきて、間も無く戦争が始まってしまいます。(満州事変、ドイツでのナチスの台頭、第二次世界大戦勃発、日本の真珠湾攻撃など)
そんな時代に欧州出身者でデザインや装飾の分野で活躍されていた女性が日本にいたことに少し驚きます。
戦後は夫と共に後進の育成に携わり、1950年京都私立美術大学に、先に招聘された夫に続き教授として「色彩構成」という基礎教育を担当したそうです。
4人の優秀な教え子たちを指揮して東京日本生命日比谷ビル内の日生劇場地下レストラン「アクトレス」の天井と壁面のデザインを手掛けるのは1962年(昭和37年)69歳の時です。生涯を通じても最大規模のお仕事だったようです。
翌年に京都私立美術大学を定年退職、インターナショナルデザイン研究所の設立に夫と共に中心となったそうです。
1967年(昭和42年)京都の自宅で生涯を閉じます。享年74