都立旧古河庭園を散策中です。
今回は、旧古河邸(洋館)と洋風庭園(バラ園)を観ましょう。
まぁ今回も正直な処、特撮ロケ地として紹介するには微妙なのですが・・・、
大正時代に建てられた洋館なんて、日常的に観る機会なんてありませんからね(ありませんよね?)、楽しみです。
(でも場所的には”日常の隣”な感じなのかな。そんな小さな違和感も面白いかも。)
訪ねた日:2024年6月13日
写真:えふゆ 無断転載厳禁
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基本情報を知るリンク
前回の”その1”記事でもお伝えしましたけれど、
旧古河庭園の入場料、(一般150円)の他に、旧古河邸の入場にも別途入場料が必要となります(一般400円)
開館日と開館時間も異なる様です。
詳しいことは、以下のサイトをご覧くださいませ。
当ブログの旧古河庭園、旧古河邸の記事作成の参考出典は、上記サイト、邸内に設置されている説明パネルやパンフレット、チラシです。
ついでに当ブログの「その1」記事も見て頂けると嬉しく思います。
洋館、旧古河邸(の外観)photograph
特撮ドラマでは、仮面ライダーアギト(2001年)で「沢木哲也の館」として登場したくらいしか、今の処 確認してないですね、えふゆ としては。
東映特撮作品では、実写版悪魔くん(1966年)やジャイアントロボ(1967年)にも登場したらしいですけどね。(未確認です)
それと、(コレ大事! ↓↓)
館内の見学は入場料を払えば出来るのですが、館内の写真撮影は厳禁なのです。
館内見学には、
「一般見学」と事前予約が必要な「ガイドツアー」の二通りがありまして、
一般見学の場合は、和風造り他の二階の部屋の見学はできないです。
一般見学で見学できたのは、一階のビリヤード室、書斎、応接室、テラス、大食堂(正面玄関から入場しての順路)と二階の蔵に設置された資料室と特別展の展示室でした。
「映画撮影の為のセットです」って嘘つかれても信じてしまうかも。
”この空間で日々を過ごす日常と、そんな人々”を、一庶民の自分からすれば、想像の範囲外ですね。
車寄せ側
旧古河邸のパンフによれば、この建物は現在、公益財団法人「大谷美術館」という解釈で間違いないのでしょうか。
「美術館」という”括り”には、正直ぴんと来ませんけど。(個人の感覚です)
東京都の助成を受け、美術館として昭和58年(1983年)から6年をかけての修復後、平成元年(1989年)に一般公開になったそうです。
一般公開されて35年ですか(当記事の作成は2024年)
ジョサイア・コンドル設計の建物は耐震・耐火性が高く、関東大震災を耐え抜いたものが多かったそうです。
旧古河邸も竣工した6年後(大正12年・1923年)に関東大震災が起こりました。
因みに、その際には避難所として、庭園と主屋に2000人の避難民を受け入れ、敷地内に臨時病院の開設と仮設住宅の建設をしたそうです。
車寄せ正面の植え込み。
でっかい盆栽、と言ってしまいそうなくらい和風な雰囲気。
「蔵」の外観になるのかな。
蔵の二階が、この邸と設計者の英国人建築家ジョサイア・コンドルについての資料室になっていて、一般見学でも観覧できます。
園内の端、邸の側の小屋。
納屋か何かなのでしょうか、案内地図には何の名称説明も記されて無いので特に重要では無いのかな。
車寄せ
旧古河邸正面玄関(「大谷美術館」入場口)
車寄せ内
此処までは写真撮影OKですって。
ビリヤード室隣の喫煙室の外観です。
喫煙室は見学不可でした。
バルコニー側&洋庭(バラ園)
テラスやバラ園の側に回ってみましょう。
旧古河庭園では約100品種の薔薇を観ることができるそうです。
薔薇って100種類もあるのですか。
訪ねた日は「春のバラフェスティバル」開催中(イベント終盤期)でした。
喫煙室の室内デザイン、何となくクリムトが活動してた時代のオーストリア芸術 的な感じ。
「芝生」側から洋館を見る。
繊細なデザインの物体は避雷針だそうです。
洋館前の洋風庭園(バラ園)を俯瞰する位置。
「春バラフェス」中と言っても、一番の見頃はちょっとばかり過ぎてしまったのかなぁ、分かりませんけど。
テラスを外から。
さて、
(バラの花びらと香り入りのアイス)
一休みしたら
帰ります。
此処まで見ていただきまして、ありがとうございます。
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旧古河邸を造った人はどんな人?
旧古河邸で手に入る説明チラシに記されている内容から大掴みに記しますね。
旧古河邸と洋風庭園を設計した建築家ジョサイア・コンドル(1852-1920年)はイングランド出身。
幼少期に父を亡くし母子家庭で育ったそうです。
商業学校卒業後、建築事務所で働きながら美術学校や大学で絵画と製図を学んだそうです。
15歳のとき設計協議会に出品したカントリーハウスの設計が若手建築家の登竜門と云われる 賞を受賞。(若!)
これが明治政府関係者の目に泊まり日本での雇用契約を結び24歳で来日。
工部省営繕局の顧問・工部大学校(現・東大工学部建築学科)教授に就任。(若!)
1884年(32歳)に退官するまでに、後に日本近代建築界を支えた有名建築家達が師事しました。
雇用契約が終了して、一度祖国に帰国後に再来日。
日本の要人宅を多数手掛けます。
バラはイングランドの国花でコンドルの愛した花でもあったそうです。
バラ園だけではなく、邸内にもバラをモチーフにしたレリーフが見れます。
日本の様々な伝統文化への関心と親しみ、知識が深く、日本舞踊を通じて知り合った日本人女性 くめ と結婚しました。
旧古河邸は65歳の時に竣工した最晩年の作品です。その3年後コンドルは世を去ります。
ちなみに庭園内の日本庭園を手掛けた7代目小川治兵衛にとっては東京に進出して、最初に手掛けたの庭園だったとか
今回も最後までご覧いただきましてありがとうございます。
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次回予告
わざわざ特撮ロケ地をスタートして(何で?)、とても長〜い参道を歩いてみました。
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