谷崎潤一郎「卍」 まんじ

ドロドロでグチャグチャで歪な恋愛話です。

女性の同性愛を軸に語られる物語で、女同士の睦みがすごく官能的です。

でも同性愛をテーマにした物語ではない様な気もします。

「痴人の愛」に連なる”崇拝される美しい者”と”美の奴隷を望む者”の物語に思えるのです。

語り出し

夫との夫婦仲が良くない柿内薗子は気晴らしに通い始めた女子技芸学校で絵を描き始めます。

薗子が授業中に描いた観音様の絵を、ある思惑を持って校長先生がいちゃもんを付ける様になります。

薗子の描いた観音様の絵の顔が、目の前のモデルの顔ではなく別の人間に似てるのはおかしいだの、けしからんとだの、毎度誹りに現れるのです。

薗子の描いた観音様の顔は、年下のお嬢さま徳光光子に似ている様です。

薗子と光子は同じ学校に通っているだけで接点はありません。

だけど光子の顔だけは知っていた薗子は、光子の「綺麗な顔」を自然と絵に描いていた、ということらしいです。

そんな日々がきっかけとなり、薗子は光子を意識するようになり、

そこからふたりはとても親密な友人となっていきます。

この時点では恋愛感情ではないのでしょうか、それとも特別な感情の萌芽もあったのでしょうか。

夫婦の寝室は始まりと、そして幕を閉じる"神聖"な場所

イメージ画:えふゆ  無断転載厳禁

薗子と光子の最初の絡みが激しいですね。

あんたが描いた観音様の顔は自分に似てるけど身体が違う、という光子に、

それなら裸を見せてよ、と返す薗子

いいけど何処で脱ぐ?

仲の良い女同士のたわいない会話ですなのですかねぇ。

薗子は自宅に光子を招き、寝室に連れ込みます。

「結婚したらどんな立派な寝室だったとしても綺麗な籠に入れられた鳥の様なもの」

「夫婦の寝室は神聖なもの、旦那に叱られない?」

「あなたは特別、処女の裸体だって神聖だから」

交わされる会話からしてこの後の情事を想像するなというのが無理でしょう。

”籠の中の鳥”、”神聖”というワードは、物語のお仕舞いへの伏線にもなっている様に思えます。

この寝室は物語の最後の”場所”でもあります。

でも薗子の独白一人称で語られる文章はこの時点では少々淡々とこのシチュエーションを語っているようにも思えます。

「脱いで」と迫っても劣情ではなく、むしろ仲良しの友人との無邪気さを感じます。

白昼です、5月の海に面したその部屋で窓を開け放し、遮るものも無い状況で「裸になって」と薗子は迫ります。

結局窓とカーテンを閉めることにして、観音様のように全裸にシーツのみを纏う光子

締め切った部屋に5月の陽気は、光子の美しい裸体を汗ばませます。

ここで薗子の中で、何かのスイッチが入ってしまうのでしょうか。

シーツのみを纏う全裸の光子はさぞ神々しく美しいのでしょう、

光子に抱き付き、涙を流し、抵抗する光子からシーツを剥ぎ取り、抵抗されれば逆上し、服を着るな!と野獣のように組み敷くのです。

美しいものを奪い取れた満足感から、光子の身体に纏い付くものをとりさらえば、目の前には何も纏わない神々しい処女の身体が現れます。

その神々しさは薗子に敗北感を与えたのでしょか。

「あんたを殺して私も死ぬ」

と言い出します。

「あんたになら殺されてもいい」

と光子はいいます。

ふたりして涙を流しながら抱擁します。

イメージ画:えふゆ  無断転載厳禁

薗子の中で芽吹いたものは何でしょうね、同性への恋愛感情なのでしょうか

心のもっと深いところでは ”美への屈服と服従” の始まりのひとときだったのかもしれないです。

でもこれほど幸福に満たされたひと時もないでしょう。この時点では・・・。

作者の文章が、読み手の劣情を刺激させ行間を二次創作的な妄想で一杯にさせます。

本当に官能小説です。

大阪弁

薗子の一人称の独白で語られる文章は全て関西弁(大阪弁)です。

大阪弁に馴染んでないと少々読み進めずらく感じたりしませんか。・・・ディスりでななく。

個人的には馴染みある言葉や、はんなり感のある言葉であれば、もっともっと劣情感に浸れた気もします。・・・ディスりでななく。

谷崎潤一郎は関東大震災で被災して関西に居を移した頃から、西洋崇拝的な感覚から、より日本的なものに魅かれる様になったのですね。

移り住んだ大阪の言葉に東京や京都の言葉よりも、美しさを見出しただそうです。

その"美しい言葉"を用いて、このグチャドロの愛欲話を語ろうとしたのでしょうか。

度々差し込まれる作者による注釈(注釈は大阪弁ではないのです)はまるで谷崎が実在する人物の独白を聞いて文章化してる様な錯覚になります。

他の谷崎小説と同じく、美への拝跪の物語である気がする。

月岡工業 アイリス 1890-1900年 アムステルダム国立美術館

「痴人の愛」のヒロイン ナオミは、自身の美貌を持って自身を崇拝させる女へと成長していきます。

成長の過程では、男どもと自分が遊んでいるつもりが、遊ばれている様な浅はかさを見せている時もありますが、

徐々に悪女へと成長し、最後はナオミから離れていこうとするパートナーの譲治に罠を仕掛けてつなぎ止めることに成功します。

光子は物語の始まる時点でこの成長過程をある程度身に付けている様な少女に思えます。

なんとなく自分を気にしてる様子の年上の人妻に、「姉ちゃん」と呼んで甘えてたりして、主導権を握らせている様に事を運びながら、その実、年下の自分が姉の様に全てコントロールしているえげつない特質のようです。

それを薄々分かっていながら光子と別れられない薗子です。

年下悪女に調教される年上の人妻的な図式でしょうか、A Vやポルノ小説の様で官能的です。

光子は、自身の美貌に惹かれるのが男だけでなく、女からもそう見られることに、いい知れない自尊心が満たされます。

それを与えてくれる”お姉さま”を繋ぎ止めたいのでしょうか。

支配できるお姉さまと分かっているのでしょうか。

ぐちゃどろの果てのグロテスクな人間たち

イメージ画:えふゆ  無断転載厳禁

光子にはサイコパス風味の男の恋人もいます。

綿貫栄次郎は女性のように美しい美男子。

でも性格は「女の腐ったの」のような奴、と文章は表現します。(薗子の語りでしたね)

この表現、ある意味”おちんちんのついている”3人目の女性の登場人物なようにも一瞬感じてしまいます。

栄次郎が”女性的”であるのには理由があるのですけど・・・。

この男、サイコパス風味の凶悪なストーカー気質です。

なぜこんな男と関係を持つことになったかは、光子の跳ねっ返りな性分に原因にある気がします。

もしかしたら光子は難儀な性格な奴であっても、操縦できる自信があるのでしょうか。

それにこの男は薗子を繋ぎ止める道具にもなると考えたのかも知れません。

だとすれば光子は相当賢くえげつないですね。

でもこの男のねちゃねちゃした性質は凶悪で制御出来てるとは言い難いですね。

この後問題となります。

光子を巡る奇妙な三角関係

イメージ画:えふゆ  無断転載厳禁

薗子も栄次郎も、光子から一番愛されているのは自分ではないと思っているのが面白いです。

薗子はある程度達観した思いを抱いている様にも思えます。

でも栄次郎はどうしても光子と別れたくない(繋がれていたい?)

栄次郎は薗子に光子の”共同所有”を提案してきます。

繋がれたい側が、繋いでる側を密かに”共有物”にしようと言っているの滑稽でグロテスクですが、栄次郎はには別の思惑があるのです。

さて栄次郎が闇い思いを抱いて暗躍することで、それまで物語的にも蚊帳の外的だっだ薗子の、弁護士の夫を巻き込んでいくのですが、

ここでいつもの谷崎変態系物語と何となく違う雰囲気を感じましたけど、続いて女二人の計略を経て、さらなる三角関係が生まれ、お馴染みの美の拝跪変態物語へと帰結します。

個人的にはこのお仕舞いが醸す雰囲気はあまり好きにはなれなかったです。

度々「痴人の愛」を引き合いに出してしまいますが、虐げられてもある種の幸福感のあった「痴人の愛』の譲治に比べると薗子はあまりにも不憫です。

お仕舞いなのは物語だけで、薗子の不憫な思いを抱きながらの人生はまだ終わらないのです。

きっと命ある限り・・・。

好きになった人が同性だった・・・

ゴディーズマガジンvol.130掲載のサッフォーのイラスト 1895年2月 NY公共図書館

感性の貧しい助平なだけの中年男子にすれば、女性の同性愛の物語に対してポルノ的関心を除外するのが難しいのは正直な気持ちです。

現代では様々な恋愛の形が比較的普通に認識されている様にも感じられるのですが、谷崎潤一郎が「卍」で女性同士の同性愛を書いた時代(1928年 昭和3年)は世間の同性愛に対する考え方はどうだったのでしょうね。

戦国武将の男色話は大抵知られてることの様にも思えるのですが、西鶴の「好色一代男」の主人公 世之助も女性とだけではなく、男性とも睦んでましたね。

古代ギリシャの女流詩人サッフォーはレズビアンだと言われてますね。

実際には女性とだけではなく、男性との結婚や恋愛もしていたそうですね。

そもそも人間は元々、性別を気にすることなく、好きになってしまった人と睦たくなってしまう生き物で、

それは考えるまでもなく自然なことだったのでしょうかねぇ。

こちらもいかがでしょうか

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