谷崎潤一郎「人魚の嘆き」は冒険物語の序章のような気がして。

大正○年、ある幻想怪奇小説が映画化されたようです。

谷崎潤一郎 原作「人魚の嘆き」を、これがデビュー作となる小野田吉之助が監督しました。

監督の小野田は撮影期間中、主演女優と肉体的関係を持ってしまい、その女優...こちらもこれがデビューで素人同然です、のシーンがやたら冗漫すぎて退屈極りない残念な作品に仕上がってしまったようです。

その為この映画は、見るに堪えないと酷評され、買い手がなかなか付かなかったそうで試写以外で公開されたかどうかよくわからないようです。

...「肉塊」を少々アレンジして妄想しました、ごめんなさい。

『人魚の嘆き・魔術師』挿絵:水島爾保布 春陽堂 大正8年 
国立国会図書館デジタルコレクション

怪奇幻想の世界を映像化したい思い

『人魚の嘆き・魔術師』挿絵:水島爾保布 春陽堂 大正8年 
国立国会図書館デジタルコレクション

谷崎潤一郎は大正9年、大正活映という映画制作会社の脚本部顧問に招聘され念願の映画製作に参加するのです。

耽美で幻想的な文芸作品をうみだしたかった谷崎でしたが当時、世間が求めるジャンルではないと会社が判断したことで映画製作と袂を分つことにします。以後一切映画製作に関わることはなかったそうです。

人外が登場する耽美で幻想怪奇な物語を映画用に準備していたみたいです。

現在であれば実現されていたかもしれませんね。

ひょっとしたら谷崎潤一郎の怪奇幻想系の作品の映像化を考えているクリエイターさん居たりするのでは。

「肉塊」が発表されたのは映画製作から手を引いた2年後の大正12年で、この作中に主人公小野田吉之助が監督する映画が「人魚の嘆き」を彷彿させます。

劇中劇と言える程に明確なストーリーが明示されてませんが、人魚とプリンスの逢瀬を撮影するシーンが書かれてます。

ただ、「肉塊」の作中で書かれれる人魚とプリンスの感情は、「人魚の嘆き」の人魚と貴公子の関係とは少々違うように感じますが。

「人魚の嘆き」あらすじ

『人魚の嘆き・魔術師』挿絵:水島爾保布 春陽堂 大正8年 
国立国会図書館デジタルコレクション

この世の遊興を遊び尽くし人生に退屈する在る国の貴公子は、異国の行商人が売りに来た、この世のものとは思えない美しき人魚に惹かれて買い受けます。

けれども人魚は、捕えられ、故郷を遠く離れた地に売り飛ばされた境遇に悲嘆に暮れ、どうご機嫌を取ろうとも、買い主である貴公子になついてはくれません...。

人生に飽きた状況の中で、心を燃え(萌え?)立たせる存在に出逢えた貴公子と、水槽の中で悲運に嘆く人魚の心が交じり合うことなく日々が過ぎていきます。

そんなある時、人魚の水槽の前で、貴公子は温めた紹興酒を煽るのです。

暖かい紹興酒の香りに惹かれたのか、いつも水槽の底で悲嘆に暮れている人魚が水槽から上半身を乗り出し、貴公子は暖かい酒を人魚の唇に注ぐのです。

神通力を回復した人魚は人間の言葉を使い、貴公子に生まれ故郷に返してくれるよう懇願します。

人魚の履歴

オディロン・ルドン 波間から現れるセイレーン 1883年 シカゴ美術館

個人的に人魚のイメージは「西洋発」と感じてしまいがちです(貧しい感性?)。

有名な人魚姫の物語をかいたアンデルセンはデンマークの人ですし、そもそも人魚伝説の”ご先祖さま”はギリシャ神話のセイレーンやスキュラとする認識が一般的な様ですし、半人半魚の神さまや王さまの伝説となればさらに遡ることになるでしょうね。

でも日本人作家の谷崎が1700年代の中国を舞台に書いた物語に人魚が登場することに違和感のない独特の雰囲気を感じます。

実際、東洋にも人魚伝説はあるのですが、四つの足を持つ魚だったり、人面魚のような魚だったりするようで、半人半魚な人魚は西洋から伝来したイメージのようです。

ただ「人魚」という半人半魚に限定しなければ、海や水辺と女、女神を関連付けたお話は、洋の東西を問わず根源的な妄想の様ですね、身を滅ぼすほどのエロチシズムを伴う。

日本にも人魚の肉を食べたことで長寿となった八百比丘尼(やおびくに)の伝説が知られてますね。

人魚の履歴や、人魚にまつわるお話は興味深いお話が沢山ありそうですね。

異世界への旅立ち

ヨハネス・ジョセフス・アーツ 五人魚 1881-1934年 
アムステルダム国立美術館

「人魚の嘆き」は耽美な幻想怪奇小説であり、谷崎文学にある”美への拝跪”も内包していますね。

でも、この物語は冒険物語のプロローグな気もします。

貴公子は行商人に人魚を見せられるよりも前に、その行商人の容姿を美しいと感じ、西洋人が皆貴方の様な容姿であるならば、自分を其処へ連れて行ってくれとか、貴方に従属しますとまで言い出す始末です。

行商人は思い止まらせます、お金持ちの顧客を失うの嫌ですものね。

その後、貴公子は人魚に唆されて彼女を解放する事にします。

美しき人外は、強く恋情を抱いても触れ合う事さえ、抱き合うことさえ儘ならないのであるならば、たとえ相思相愛であったとしても諦めるしかないと思ったのでしようか。

こうして恋焦がれた存在との別離がひとつの青春のお終いと共に物語が締め括られた様にも受け取れます。

でも、物語の締め括りはこんなふうに書かれてます。

貴公子を都合よく(?)言い含めた人魚は、

「もう一度人魚を観たいと思うなら欧州行きの船に乗り、船が南洋の赤道直下を過ぎる時の、月の良い晩に私を海に解放してください。私はきっと波間に人魚の姿を示します」

と言って小さな海蛇にメタモルフォーゼします。

香港発イギリス行きの汽船に乗り、船がシンガポールを発したある夜、貴公子は人気の無い甲板から小さな海蛇を解放します。

月明かりに照らされた遙か沖合に銀の飛沫を立てて人魚が姿を見せ、波間に沈んで行きます。

そして、貴公子の乗船している汽船はヨーロッパへ、人魚の故郷地中海へと進んで行くのです、貴公子の心に”一縷の望み”を宿して。

『人魚の嘆き・魔術師』挿絵:水島爾保布 春陽堂 大正8年 
国立国会図書館デジタルコレクション

貴公子は親から相続した、使い切れないくらいの財産を持ち、容姿端麗、頭脳明晰で博識で詩歌の才能も備えている、持ってないものは何もない人ですね。

「美は服従すべき絶対の存在」と、他の谷崎作品にも一貫した考えが芽生えつつある人物ようです。

欧州に向かう船に乗っている貴公子は、恵まれた境遇を捨ててまで、成就されない触れ合えない恋を追いかけて行こうとしているのではないのかなと...。

あらゆる学に精通していても、欧羅巴は「世界の果てにある野蛮人の世界」と考えていた貴公子がそんな”異世界”に到着して、贅沢な放蕩三昧の生き方をしてきたこれまでの事が全て幻だったのではと思えてしまうくらいに惨めで過酷な体験を重ねる過程で、自身の中で目覚めつつある耽美と被虐的性癖をはっきりと自覚するに至った時、人魚に再会し殉じてしまうのではないだろうか。

「人魚の嘆き」を物語の序章のような気がしたとき、その後のお話をこんなふうに妄想してしまうのです。

谷崎潤一郎についてはこちらもいかがでしょうか

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