貴族画家ロートレックの「彼女たち」elles へのまなざし

毎夜歓楽街を彷徨い、娼館に滞在した貴族芸術家と聞けば、枚挙に遑がなく官能的エピソードに溢れていたのでしょうか、ロートレックの人生は・・・。

貴族画家と「彼女たち」の交感

ムーラン・ルージュにて 1892-95年 シカゴ美術館

19世紀末多くの芸術家が活動拠点としたのが、元々は貧しい農村だったパリ北部のモンマルトルです。

ロートレックの師ボナやコルモンのアトリエもその地にありました。

1881年、この地にキャバレー「シャ・ノワール」(黒猫)が開店します。(ロートレックが最初の師プランストーのアトリエに通い、画家になることを決めた年でもありますね)

「シャ・ノワール」の開店はモンマルトルが歓楽街へと発展していく始まりとなったそうで、それからキャバレー、カフェ・コンセール(演芸喫茶)、ダンスホールが次々軒を連ねていったそうです。

”貴族”ロートレックも師匠のアトリエに通うようになってから、この猥雑な歓楽街の魅力に惹かれ移り住みます。

1885年、作曲家兼人気歌手のアリスティッド・ブリュアンが「シャ・ノワール」跡地にキャバレー「ミルリトン」を開店します。

ロートレックはブリュアンに魅了され「ミルリトン」に通い詰め、ブリュアン本人や出入りの歌手や踊り子、他の常連客と親しくなります。

アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレーにて 1893年 シカゴ美術館

キャバレーの他にロートレックが足繁く通ったのが娼館だったそうです。

娼館には何ヶ月と滞在して、基本的に住み込みである娼婦たちの日常をつぶさに見続けます。

そこで見てきた情景は1896年、限定100部で出版されたリトグラフ画集「ELLES」エル-『彼女たち』にも纏められます。

この画集は娼館に入り込んでみなければ知る事のない娼婦たちの日々の日常生活、"秘め事の舞台裏"を描いていて、決して覗き見的な劣情感や猥褻感を惹起させるものはなく、あってもニュアンス程度で、寧ろやるせ無さが漂います。

ロートレックが娼婦たちを見つめる眼差しは優しく、彼女たちとは信頼関係を築けていたと言われてますね。

快活でありながら、自身の身体の自由がきかないことからくる孤独感と、彼女たち一人ひとりの抱える孤独感が重なり、共感を覚えたからと語られるようです。そんな面もあるかもしれませんね。

でも、社会の底辺に身を置くことにならなければ、愛のない男たちに抱かれることを仕事にしないだろう彼女たちと、金に困ることなく奔放に生きてきた貴族さまの心が寄り添えるものなのでしょうかね。

孤独感は十人十色、目の前の人の孤独感に寄り添える感性を持ち合わせられるならば素敵ですね。

ただ一度の恋愛?

夜な夜な歓楽街に入り浸るロートレックはその頃、マリアというはたちの女性と出逢い、激しく恋に落ち二人は同棲します。

マリアはサーカスの空中ブランコ乗りの訓練中に転落事故を起こした後、洗濯女をしている母親を手伝う傍らシャヴァンヌやルノワール他、多くの画家たちに人気のモデルになったのですね。

大酒飲みで奔放な彼女はサーカスの仕事をする以前から絵を描いていて、ドガを師匠とし、自身も画家になるシュザンヌ・ヴァラドンのことです。

シュザンヌのデッサンの素晴らしさに一番最初に気づき、ドガ宛ての紹介状を用意したのがロートレックだと言われてます。

ロートレックと出逢ったとき2歳だった息子も後に画家になるモーリス・ユトリロです。

シュザンヌは安定した生活を手に入れたくてロートレックとの結婚を望み、結婚してくれないのならば自殺する、とまで言い出したようですね。

それが狂言であることに気付いたロートレックはシュザンヌとの関係を終わらせます。

そもそもシュザンヌは自身の人生を素晴らしくする事以外は考えない女という印象を持ちます。最初から相思相愛だったのかちょっと疑問です。

ロートレックは並外れた性浴の持ち主で、この貴族画家にとっての女性観とは「女神であり情婦でありモデル」という考えであったと思われているようです。

(因みに裕福なブルジョワ、マネも似たような女性観の持ち主だったような・・・)

なのでシュザンヌの存在は生涯で唯一の”本気の恋情”を抱いた女性だったといわれているようですね。

この出来事以降、女性に対しては傍観者でいようと決めたそうですが、性欲が衰えることはなかったそうです。

シュザンヌ・バラドンについては、こちらを

”小さな宝石”と呼ばれた男の人生

アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ・ロートレックは1864年11月24日、南仏アルビの最古の城館の一つ「ボスク館」で誕生します。

ロートレック家はアルビ地方を1000年以上治めていた高名な伯爵家で、アンリは生まれながらの貴族なのです。

家族の所領地で伸び伸びと過ごし、奔放で快活な少年は”小さな宝石”と呼ばれ周囲の人々に愛されて成長します。

ただ生まれながらに頂いたものは恵まれたものばかりではなく、病気がちのひ弱な体質でもあったそうです。

13歳のとき自宅の応接間で椅子から転げ落ちて左大腿骨を骨折、一年後散歩中に、右大腿骨を骨折したことで骨の成長が止まり無理のきかない身体となってしまいます。

父アルフォンスと母アデーレはいとこ同士。

ロートレック家とアデーレの出身のタピエ家はともに名門で、それまでにも同族結婚を繰り返してきていたようで、医学的にはこれがアンリの生まれながらの虚弱体質の原因では?、と言われているようです。

虚弱体質の本当の原因はどうであれ、こうして乗馬や狩猟を好む豪快な自由人である父は息子と距離を置くようになってしまいます。

まぁでもアンリのその後の人生を眺めると、自由人気質は父からしっかり受け継いでいるような印象を感じますけど。

画家になる

アンリが生まれながらに預けられた数々のものの一つが絵の才能なのでしょう。

母親は息子が早くから絵描きになりたがっていることに気付いていたそうです。

ノートに描き散らかした幾つもの”落書き”は風刺画家が描いたような風格を感じさせ、本格的に絵を習いだす前後くらいに描かれた母の肖像画は、神々しく、ベルト・モリゾや印象派の画家の作品のようです。

1881年17歳の年、父親の知り合いの動物画家プランストーの元に毎日通い、絵の手解きを受け、プランストーの勧めで翌年肖像画家レオン・ボナのアトリエに学ぶのですがアトリエは間も無く閉鎖されため、他の弟子たちと共にフェルナン・コルモンに学びます。

このアトリエで多くの若い画家たちと知り合い友情を育み、切磋琢磨したのでしょうね。

コルモンは歴史画家として有名な人ですが、個性を重んじるとても優しい人柄で自身と違う考えや価値観に対しても寛大に接する人だったそうです。

コルモンの技を学びながら、同時に独自の手法も模索する日々を過ごし、持ち前の才能を発揮し始めます。

画家としてのデビューは1889年「第5回アンデパンダン展」への出品ですが、世間から注目されるようになるのはこの年に開業したムーラン・ルージュから依頼されたポスタービジュアル(1891年)を手掛けてからです。

それまで”広告”でしかなかったポスターを”芸術”の域に押し上げるきっかけになったと語られてます。

ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ 1891年 シカゴ美術館

アルコール中毒

作品の制作点数多産の時代が終わるのが1897年33歳の頃と言われてます。

この年の夏頃からアルコール中毒の症状による幻覚や妄想に蝕まれ錯乱することが度々起きます。

明らかに、心身ともに健康状態は良くない状況だったようですね。

2年後、かなり激しいアルコール中毒の発作を起こしたため精神病院に3ヶ月間監禁されます。

退院後、転地療養をしながら周囲の協力もあり再び創作意欲を起こすものの、母親の付けた監視役の目を盗んでは飲酒をしていたそうです。

1901年、夫と別居してボルドーにほど近いマルロメの城に住む母に抱かれ生涯を閉じます。

享年36歳

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