7歳で腰元を口説いたことを始まりに色道に生き、生涯に関係を持った女3742人、男725人・・・。
井原西鶴の作家デビュー作「好色一代男」(1682-天和2年)の主人公 世之助の好色遍歴。
劣情を焚きつける様なタイトルですがポルノ小説ではない趣のお話でした。
西鶴もポルノ小説を書いたつもりはないのでしょうね。
欲情を催させる描写もあまり多くなくて、唯一人の男の色事遍歴が綴られ、物語の舞台が遊郭中心の後半部分は個人的にはちょっと退屈でした。
そんな気分になってしまう私は粋人でないからでしょうか。
目次
ストーリー
物語前半 おませさん流浪編
おませな男の子 世之介が、7歳で侍女を口説くことから始まって、11歳で廓通い、好色放蕩が過ぎて19歳で勘当されお坊さんになってみたけど、色事を断ち切れそうもないので還俗して、各地を流浪します。
芸事を披露して糊口を凌ぎながらも、なけなしの金が手に入れば、それも色事に注ぎ込みます。
そんな日々は世之助を”粋人”へと成長させることになるのでしょうか。
知人を頼って身を寄せたところで、父が亡くなったことを知らされ、一生かかっても使いきれない莫大な遺産を相続し、人生を色道に生きていくと改めて決意します。
世之助のおませな少年時代の描写は滑稽で可愛らしさを感じます。
人妻巫女を強姦しようとして片側の髪を剃られ、そんなルックスから怪しく思われ牢に入れられ、そこで出会った女囚と逃避行なんてエピソードもあって、前半部分は遊郭三昧の後半のストーリーよりも冒険物的で楽しめました。
物語後半 粋人花道編
勘当されひもじく全国を流浪した前半と対照的に淫欲放蕩で全国の色街に出向く世之助。
粋人の世之助はときに太夫に恋心を抱かせたり、抱いたり、様々な女たちと出会います。
そんな世之助の色道に読者は”同行”することで各地の遊郭や太夫のこと、粋人の遊び方などを知ることになるのですが、人の好色遍歴を漫然と読まされている感じは正直退屈です。
西鶴自身、後半部分は少々飽きてしまって、弟子に促されてなんとか執筆したとか。
終章 えろ爺さん旅立つ
世之助は60歳、好色の限りを尽くした人生にもお仕舞いが迫ります。
この世に未練なく生きてきた世之助は、好色丸と名付けた船を拵えさせ、様々な性具、強壮剤、催淫剤、堕胎具、春画や鼻紙を大量に積み込み、6人の仲間たちと共に女性しか存在しない女護の島へと旅立ち、以後行方知れずとなります。
全島民が女性という女護島とは何?。その後の世之助は?
「この世に未練はない、女しか居ない島へ行って、掴み取りの女を見せてやろう」
そういって船出して行方不明となった世之助のその後はどうなったのか。
島民全てが女という女護島とは何処にあって、えろジジィたちはたどり着けたのでしょうか。
読んだ人は気になりますね。
まぁ読者一人ひとりが好きな様に妄想をすればいいことですけどね。
後日談があるそうです。
「好色一代男」の2年後に刊行された「諸艶大鑑」(しょえん おおかがみ)という短編集の始まりの章と終わりの章に世之助の息子 世伝 (よでん)が登場します。
これが「好色二代男」といわれる続編ですね。
色道にのみ生きる子孫を遺さない男、という意味の「好色一代男」に息子ですか?
「好色一代男」前半で後家に生ませた赤ん坊を捨てるエピソードがあるのですね。
その子が世伝なのですね。
著作権の意識が全くない時代です、西鶴とは別の物書きによって書かれた「好色三代男」というお話が存在します。
世之助の後に一人で女護島に行った男の現地での色事と帰還後の物語が西鶴の許可なく展開されてるそうです。
勝手に3代目を襲名しちゃった感じですかねぇ・・・。
どんな解釈すればいいの?
西鶴と「好色一代男」は日本文学史や出版史で、浮世草子(小説)のエポックメイキングな認識がある為、研究書とか関連書籍が沢山あるみたいですね。
西鶴についての本を1・2冊程度でも読んでみると、「一代男」終章から後日談にかけて、ある程度の共通認識的な解釈が存在してるみたいですね。
「好色一代男」は出だしから古典文学からのパロディや引用が満載の様で、西鶴の活躍した時代は庶民でも古典文学を読んでいる人々が少なくはなかったそうですね。
そんな読者からしたら著者との共通認識を楽しめたでしょう。
ただ、好色一代男は当時ベストセラーになったそうで、タイトルに惹かれて、古典文学に関心がなくても手にした人々もいたのではないのかと想像します。
西鶴の娘おあいが主人公の朝井まかて氏の小説「阿蘭陀西鶴」に、刊行前の「好色一代男」の原稿を取り巻きや版元に見せるシーンで西鶴は、
「世之助は光源氏の写しや。けど源氏の様に雅なだけでなく、失敗もするし小癪な面もある。今の町人が身近に思える男を書いた」
と言ってます。
西鶴は庶民である読者が、身近で想像し易く、自分が世之助になった気分にさせるものを書いた自負がある様で、実際そう感じた町人が沢山いて(女性にも面白がられた様です)、海賊版やパクリ本が出るくらい読まれたのでしょうね。
古典文学の素養無い私の解釈・・・というより薄らぼんやりな印象
この記事を書いてる自分は古典文学の素養がないので西鶴の企みには残念だけれど乗れないのですが、
何かを知ってないと読んじゃだめ、なんてことになったら何も読めないし観れないですよね。
知っていればより楽しめるでしょうけど・・・。
それに世之助の人物像を、想像しやすい身近さに感じないのです。
そもそも世之助の実家はお金持ちそうですから。
初めてこの物語の終章に触れたときの、個人のぼんやりと感じた印象は、
この物語は現(うつつ)で展開されたお話ではないのかな?とか、
うつつ で展開される夢幻のお話、といった感じでした。
もしくは、幻想怪奇な別次元と隣接した世界で、時折その別次元が うつつの側に現れる世界観なのかなと思ったりしました。
はたまた女護島への旅立ちは、うつつ では無い世界=死出への旅立ちそのもので、粋人に誂え向きな表現されてるのかな。
物語中、世之助のせいで酷い末路を迎えることになった女たちが妖怪の如く姿で、疲れ果てた世之助に襲いかかったり(幻想?)、女の形見が超常現象を見せるシチュエーションは終章への伏線なのでは?、なんてこじ付けてみたりして。
そもそも庶民からしたら廓で遊ぶこと自体が夢・幻の世界でしょうし。
(あくまで個人の印象です、ぼんやりした・・・。)
使いきれない財産を持って淫蕩に吹けまくってみても、老いと共に全て夢と幻の虚しき世界に取り込まれちゃう うつつ の切なさ。
現がどうだ、幻がなんだ、それがどうした、したい事して死ぬるなら結構じゃないか 。
西鶴なのか世之助なのか、そんなこと言うのでしょうか・・・。