エロティシズム、フェティシズムという点から人物に興味を持つと、19世紀末から20世紀の始まりの頃のオーストリア ウィーンはフェチ人の宝庫のように想像します。
グスタフ・クリムトと師弟のような関係であったエゴン・シーレもその一人でしょうか。
16歳でウィーン美術アカデミーに入学を許されてから28歳で亡くなるまで、
芸術家として活動できたのは10年足らず。
自身の内面の生と死と性、自己愛と嫌悪感に真正面から向き合い、嘘偽りなく自己を観察し表現したシーレ。
「永遠の子供」と自身を定義していた傍若無人な青年は「大人」へと歩き出そうとしていた矢先に夭逝するのです。
目次
エゴン・シーレについてざっくりと
1890年ゴッホが自死した年に生まれたシーレ
15歳のとき梅毒が原因の病気で敬愛する父が亡くなります。
この出来事が「死」を意識する最初の出来事の様です。
かねてからデッサンの才能を認められていたシーレは父の死の翌年16歳で審査の厳しいウィーン 美術アカデミーの入学試験に最年少で合格します。
アカデミーで絵画の基本技法を身につけることになるものの、格式的な授業内容には反発を感じていた様です。
17歳の時グスタフ・クリムトと個人的に知り合い、官能的でエロチックな作風と生き様に影響を受けます。
クリムトもシーレの才能を愛し、自身が主宰する展覧会でシーレに出展させたり、自分の顧客やモデルを紹介します。
アカデミーの学友たちと「新芸術家集団」を結成、
アカデミーの伝統的で格式的な授業を批判したことが問題視されて、退学します。
後見人を務めた叔父は激怒し支援を打ち切り、シーレは19歳で経済的後ろ盾を失います。
その年の末、「新芸術家集団」として展覧会を開催して自身の作品を大々的に披露します。
これが美術評論家アルトゥール・レスラーに気に入られ、以後レスラーは何かとシーレの世話を焼くことになります。
レスラーを介して蒐集家を紹介され、貧しいながらも画家活動を継続できたシーレはしかし、
自分がとてつもなく優れた画家であることを主張し、それなのに貧乏であることを訴え、支援者を辟易させるのです。
また亡くなった父同様に見栄っ張りで収入より支出の多い生活を続けるため、支援者にお金を無心することも しばしばありました。
1909年のおしまい頃から1010年にかけて、シーレは独自の様式を「覚醒」させたと言われていますが1911年初めての個展を開催するものの評判は今ひとつだったそうです。
そして都会に疲れ静かな田舎町で過ごすため、クリムトから紹介されたモデル、ヴァリーと共にウィーンを離れるのですが、
若く奔放すぎる二人は住人たちは受け入れられることはありませんでした。
ノイレングバッハという村では、親切心から家出少女を一晩自宅に泊めたことで少女誘拐の容疑で逮捕されてしまう事件が起きます。
ウィーンに戻ってから結婚します、結婚式の四日後に徴兵により軍隊へ。
様々な地を転属し、またウィーンに戻ってくるのです。
(ノイレングバッハ事件や結婚については後ほど)
ウィーンに戻ったシーレには、「芸術と将来に関する」ある計画があった。
「芸術の広間」という意味の「クンストハレ」という計画
芸術家と一般大衆の出会いの場を作り、戦争や将来への恐怖と不安、活躍できない芸術家たちの孤独、それらを政治家たちに先駆けて芸術家たちで解消しようとする試み。
この計画は実現することはなかったのですが、常に自身の内なる世界だけを見つめることで創作を続けてきた早熟の天才画家は、自身の外の世界と共に生きて行くことを考えるようになったのでしょうか。
この頃のシーレは芸術家として、これまでよりも広く世界で認められるようになり、名実ともにクリムトの後継者と目されるようになりました。
1918年
2月にシーレにとって師匠のようであり、父のようであったグスタフ・クリムトが亡くなります。
10月28日、スペイン風邪により妊娠中のシーレの妻が亡くなります。
そしてその3日後の10月31日、シーレ自身も同じ疫病により亡くなります。
享年28歳
シーレは息を引き取る直前に、母親に語ったそうです。
「戦いは終わった、僕は行かねばならない」
11月、第一次世界大戦が終わります。
妹ゲルトルーデ・シーレ
ゲルトルーデ・シーレ 通称 ゲルティ、シーレの妹です。
シーレの父アドルフは、享楽的で見栄っ張りな生き様の人だった様で結婚前から梅毒に罹っていた様です。
この影響からでしょうか、妻や子供たちに感染した可能性がある様で、夫婦の最初のふたりの子供は死産、長女は10歳で亡くなっています。
その後誕生した、メラニー、エゴン、ゲルトルーデは健康に育ちます。
三人は仲が良く、活発でいたずら好きの妹をエゴンはことの他可愛がった様です。
…いえ少々度を越していたのかも
部屋の鍵をかけ、二人きりで過ごしたり、両親のハネムーンの地へ二人だけで旅行に出かけたり、母親の目を盗んでゲルティを裸にしてモデルをさせたりもしていた様です。
ゲルティはシーレの友人の絵描き アントン・ぺシュカと結婚をしますが、シーレはそこはかとない嫉妬心を感じていた様です。
静かな田舎町、母親の生まれ故郷でのスキャンダル
- 以下に少女性愛について少し触れておりますが、少女性愛を肯定したり助長するつもりはない事をお断りしておきます。
シーレは少女性愛、いわゆるロリータ コンプレックスな嗜好を疑いたくなるエピソードがありますね。
シーレの生きた時代のウィーンの人々は社会的地位、階層に関わりなく大抵の人の思考はエロチックと言われていた様です。
不倫行為に対しても大抵のことは寛大です。
娼婦であれば少女であっても成人男性との性行為が認められていたみたいです。
実際この頃のウィーンでは 多くの少女娼婦がいたそうです。
少女性愛な思考も倒錯的と見られてはいた様ですが、咎められるほどのことではなかったそうです。
画家オスカー・ココシュカの支援者の一人、建築家のアドルフ・ロースもロリコンで有名な人だったそうです。
なので、子供をモデルとして、性的なものを感じさせる作品を描いたとしても、程度の差はあるでしょうが、あまり問題視はされなかったみたいです。
でもそれは当時のウィーンという都会の話、一歩郊外へ出れば事情は違ったようです。
1911年初めて開催した個展は評判は良くはなく、かなり落胆したようです。
都会ウィーンでの人間関係にも辟易したシーレは母の生まれ故郷ボヘミア南部の街クルマウに定住の為の庭付きの住宅を見つけてもらい、当時付き合い始めた少女ヴァリーと共に移り住みます。
この静かな田舎町で、開放的で気ままな生活をはじめたシーレとヴァリーですが、
ここでの振る舞いは町の住人たちからの反感を買うことになります。
結婚をしていない若い男女が同棲することが許さない当時、
(?未婚の若い男女の同棲には寛大ではない様ですね、ウィーンではないからですかね)
21歳の男と17歳の少女の同棲は、住人たちから問題視されます。
二人の住む家は誰でも出入り自由で子供たちがよく遊びに来る様で、
子供たちからは「絵描きの神様」と呼ばれていることをシーレは知人への手紙で無邪気に語っています。
そんな子供たちをモデルにデッサン画を描く。
一人の子にそんなことをすれば、子供同士で話題になり、次々ポーズをとりに子供たちがやってきます。
そうなれば、ある事ない事 噂が広まります。
ある日、自宅の庭で裸にした少女のデッサンを描いている様子を近隣の住人に目撃され、家主に注意されることになります。
結果、町の住民に排斥され二人はウィーンに戻るのですが、静かな田舎で暮らしたいシーレは数ヶ月後、今度はウィーンから列車で30分くらいの村ノイレングバッハに、ヴァリーと共に移ります。
でも懲りないかな、この村でも同じとこを繰り返します。
そして事件が起きるのです。
またまた静かな田舎町でのスキャンダル ノイレングバッハ事件
ノイレングバッハに移り住んでから、ある雷雨の激しい夜に一人の少女が家出をしてシーレの元にやってきました。
以前よりシーレにつきまとっていたタチアナという少女です。
シーレとヴァリーは自宅に帰るよう説得をしますが、天候のこともあり一晩泊めることにして、翌日少女の祖母のいるウィーンへ送り届けることにしますが、タチアナは帰ろうともしませんでした。
タチアナの父親が連れ戻しにやってきた時にはシーレは少女誘拐の容疑で告訴されていました。
未成年者誘拐
未成年者に対する不品行の教唆
未成年者に対する強制猥褻と道徳に反する行為
という三つの容疑のうち誘拐と不品行の教唆は無罪とされたものの、
自宅の壁に架けられた絵が猥褻物と看做され、子供の目にも付くという理由から不道徳とされ24日間の勾留と3日間の禁固刑となってしまうのです。
容疑をかけられてしまうのは普段の素行が遠因にある気もしますが、元々は親切心が仇となっての逮捕、勾留、禁固刑ですから、このショックは計り知れませんね。
ヴァリーとハルムス姉妹
釈放されてウィーンに戻ったシーレは、まもなく結婚をします。
お相手は常に献身的にシーレを支えたヴァリー…ではないのです。
ヴァレリー・ノイツィル(通称ヴァリー)
田舎町の教師の娘で、職を求めてウィーンへやってくるものの、貧しく教養もなかった彼女は普通の仕事にあり付けず、裸になるモデルをするしかなかったという話です。
グスタフ・クリムトのモデルを務めたことでクリムトからシーレに紹介されます。
クリムトに何らかの意図があったのかは分かりませんが二人は同棲をします。
性に旺盛なシーレの求めに応じてどんな恥ずかしいポーズも厭わず、日常の生活面でも献身的にシーレを支えていたみたいです。
ノイレングバッハの一件で二人は絆を深めたといいます。
はじめは一緒に居ることに反対していたシーレの母も次第に許すようになったといいます。
1914年
ウイーンに戻った シーレは新たにアトリエとした場所の向かいに暮らすハルムス姉妹の気を引こうとして手紙を送りデートに連れ出そうとします。
デートには姉妹の付き添い人としてヴァリーを同行させたりします。
ハルムス姉妹は中産階級の良家の子女です。
姉妹の父親は元鉄道員でシーレの父と同業者だったことは、シーレにとっては運命的なものを感じた要因の一つだったようです。
シーレはどうやら姉妹のどちらかとの結婚を目論んでいたようなのです。
なぜ結婚を意識し始めたのか?
なぜヴァリーではないのか?
姉妹のどちらか、って つまりどちらでもいいということ?
結婚をすることで何を手に入れたかったの?
本当によく分かりません。
1914年は第一次世界大戦開戦の年です。
戦争という情勢がシーレの情緒に何かしらをもたらしたのでしょうか
翌年、姉妹の妹の方 エディットと結婚をするのですが、
エディットが結婚の条件としたのが、ヴァリーと別れること。
彼女はどうも、やきもち焼きの かまってちゃんな性格のようですが、「彼女付き」の男と一緒になりたくは無い心境は普通でしょう。
シーレはエディットと結婚をしてもヴァリーとの関係は続けられるものと思っていたようです。
ヴァリーをカフェに呼び出し契約書のような手紙を渡すのです。
手紙には「毎年夏に二週間、エディット抜きで二人だけでバカンスをする」と記されていたそうです。
関係を続けられるわけが無い!
涙を見せることなく立ち去るヴァリー。
二人は二度と会うことはありません。
その後ヴァリーは赤十字の看護婦に志願してバルカン半島の前線で猩紅熱に罹り亡くなります。
シーレの亡くなる前の年のことです。
4年間献身的に尽くしてくれたヴァリーを失ったシーレは悲しみに暮れ、「死と乙女」という作品でヴァリーに対する罪悪感を描いてます。
ずいぶん身勝手なものですね。
シーレとエディットの関係も、エディットにとって寂しさと疎外感に苛まれる日々となります。
新妻はかまってほしい!
徴兵で入隊先に向かわなければならない四日前に急ぎ結婚式が行われ、新郎新婦はチェコのプラハへ出発します。
シーレの配属先が前線から遠く離れていたためにエディットはシーレの近くに滞在できたのですが、新郎は兵舎へ、新婦は兵舎近くのホテルへと、一緒に過ごせない日々が始まります。
現地のチェコ人の召集兵は敵国ロシアに好意的だったため、脱走を図れば容赦無く処刑されたそうです。
そんな状況だったからシーレも兵舎の外へ出ることはできなかったのでしょうか。
兵舎のフェンス越しに言葉を交わすことしかできない二人。
勝手知らない、馴染みの無い街で、孤独な新妻には誘惑も迫ります。
以前よりエディットに思いを寄せていた友人がエディットを追ってきたました。
シーレの次の配属先では下士官に口説かれたり、またエディットはシーレの戦友たちと親しくなったりします。
これにはシーレが嫉妬をしますが、エディットのシーレへの思いは揺るぎません。
ウィーンにほど近い場所へ転属になるあたりで夫婦関係は改善しますが、
次はウィーンから離れた街に配属されます。
そこでは家を借りるのですが、夫婦はわずかな時間しか共に過ごせませんでした。
「エゴンとの時間はあっという間、残りの時間は果てしなく続く・・・」
その後シーレはウィーン に転属します。上官にも恵まれたシーレは自分のアトリエで過ごす時間を与えられ画家活動を再開します。
夫婦はようやくまたウィーンで生活できるようになったのにシーレは画家としての活動が軌道に乗りアトリエで過ごす時間が増え、エディットをかまってくれません。
やきもち焼きのエディットは反対するのですが、シーレはプロのモデルを雇い、アトリエには様々な女性が出入りするようになるのです。
そんな女性たちの中には、エディットの実の姉アデーレもいます。
どうやらアデーレは自分から進んでモデルを買って出たようで、義弟の求めに応じて、薄着を身に着け扇情的なポーズをとるのです。
この頃の自分の妻を「ぽっちゃりさん」と感じていたシーレはエディットをモデルとすることはなかったそうです。
エディットは自分一人が仲間外れのような疎外感を拭えなかったでしょう。
明くる年1918年、
エディットは、この年の春に大流行したスペイン風邪の第二波に感染して10月28日亡くなります。
この時お腹にはシーレの子を宿していました。
シーレの”師匠であり父”のような存在だったクリムトのお話はこちら