偉大な存在でありながら、世間的には少々淫らで軽薄と見做されていたらしい男。
だから、その存在は一族にとっては誇りであり、秘密でもある・・・らしい。
女流画家で印象派の中心的存在だったベルト・モリゾは直系ではないものの、画家フラゴナールの子孫とのことです。
モリゾ自身はそのことを知っているかはわかりませんけど・・・。
古典を学び、確かな技術を持ちながら、後の時代に登場する印象派の画家たちのように、戸外での風景や明るい陽光の絵を好んで描いた画家だったそうです。
そしてフラゴナールといえば、そこはかとなくエロチックな閨房画を描くことで有名な画家ですよね。
どんな人だったのか、ちょっと気になりますね。
愛されキャラは謎多き人物
フラゴナールという人は、4人の人物に師事して、どの師匠からも、また誰からも好意的に接せられる、
「愛されキャラ」だったそうです。
その反面謎の多い人物でもあるようです。
本人が自身について記したものや、官展のような公の場に出品した作品がほとんど無かったことが主な原因でしょうか。
自画像と言われる肖像画もあるにはあるようですが、それが本当に自画像なのかよくわからない、
つまりフラゴナールはどんな風貌だったかさえはっきりしないようです。
兄弟作家ゴンクールが、フラゴナールの伝記資料を収集し、フラゴナールの孫が祖母から聞かされた話をもとに評論を執筆するのは、フラゴナールの死後50年以上経ってからのことだそうです。
ジャン・オノレ・フラゴナールは
1732年、香水の産地として知られる南フランスの小さな街グラッスで生まれます。
商才の無い父が、祖父の代まで受け継がれた遺産を投資に注ぎ込み大失敗。
仕事を求めて一家はパリに行きます。
パリでの初等教育を終えると親は公証人事務所の事務員の仕事をさせます。
だけれども、絵を描き散らし、役に立たない15歳のオノレ少年を持て余す先生は両親に、
「この子は絵描きにしてはどうか」
と厄介払い、・・・いえ、画家になることを勧めます。
息子さんは才能がある、とでも言われたのでしょうか、真に受ける両親はオノレ少年をアトリエに修行に出します。
故郷で司祭を務めるオノレの叔父の資金援助があってのことですが、幸いオノレ少年には本当に絵の才能がありましたから、よかったですね。
エリート画家への道を歩き始めてみたものの・・・
最初に弟子入りするブーシェのアトリエは基礎を教えないため、静物画の巨匠画家シャルダンの元で習い、またブーシェの元に戻ります。
愛されキャラのオノレ少年は、特にこのブーシェに可愛がられたようで、画学生最高名誉のローマ賞を受けるよう勧められます。
ローマ賞は絵画の優れた素質を持つものを、古代とルネッサンスの地ローマで濃密な古典教育を施し、優れた歴史画家を育成することを目的とします。
他の弟子たちと違いオノレは美術学校の生徒ではないため、躊躇いますが、その背中をブーシェは押すのです。
そしてオノレはローマ賞を受賞し、7~8人の超少人数の王立特待生学校で2年、ローマで5年という期間、絵画のエリート教育を受けることになるのです。
ローマに留学してかなり腕前を上げる一方、この地で様々な出会いが影響を与えます。
ユベール・ロベールと知り合うことで、戸外での風景のスケッチにも勤しみ、僧籍でありながら美術品コレクターで版画家のサン・ノンとの出会いは様々な作品を観る機会を得、彼とはイタリア各地を訪れ多数のスケッチを残します。
「才能のあるものには、ある程度の自由を残しておかねばならない」
アカデミーの校長ナトワールの型に嵌めない考え方もオノレには幸いでした。
戸外の風景を描くことに夢中になるなんて、子孫ベルト・モリゾへと引き継がれている様にも感じてしまいます、・・・なんとなく・・・。
さて・・・
ローマから帰国して2年、アカデミーの入会を考えて提出した作品によって準会員に推されるものの、その後は大作を提出することなく周囲の期待を裏切ることになります。
本人は個人で受注した風景画や風俗画が売れていることもあって、
壮大な歴史画を手掛ける「名誉ある画家」になることに関心が薄くなってしまったといわれています。
幸せの絶頂期の閨房画家
あらゆるスタイルや画風、様式で絵を制作できる技量に、独自の作風での表現に到達するフラゴナールですがプライベートでの女性遊びも盛んだったようです。
37歳で同郷の手袋商(香水製造業者の説もあり)の娘マリー・アンヌと結婚して、一男一女を儲けます。
家族はもう一人、故郷から呼び寄せた妻の妹マルグリットを含め、しばらくは幸せな日常が続いたようです。
この頃フラゴナールが多く手掛けたのが閨房画です。
もっとも有名な作品は「ブランコ」(「ぶらんこの絶好のチャンス」)でしょうか。
フラゴナールの描く閨房画の世界観は、
例えば だいたいフラゴナールと同じ時代のフランスに生きた、マルキ・ド・サドの文学のようにサディスティックに女性をいたぶる様な世界観とは違い、コケティッシュで、昭和風の言葉でいえば「カラッとした明るいお色気」。といったところでしょうか。
後にベルト・モリゾが女性の日常の風景として、メイクや身支度をする女性の絵を描いたりしますが、モリゾの世界観よりも明るくて滑稽なエロチシズムな世界ですね。
この時期に閨房画と同じくらい多く描かれたテーマ ”家族の幸せな日常” 家庭画、子供の絵とともに、なんのてらいも無く、「生きているからこそ知ることのできる喜び」を表現した様にも感じます。
そんなフラゴナールの閨房画は、新古典主義という次のムーブメントの元では、”淫らで軽薄で頽廃的なもの” と断罪されてしまうのです。
義妹マルグリット
1780年、フラゴナール 48歳のこの年、息子アレクサンドル・エヴァリストが生まれます。
この頃のフラゴナールは 激しい情熱を内包する”愛のテーマ” に取り組みます。
晩年期に差し掛かるフラゴナールが情熱的な愛をテーマに作品を制作したのは、30歳も歳の離れた義妹マルグリットに、ただならぬ思いを抱いていたから、といわれています。
マルグリット・ジェラールは、フラゴナールの妻マリー・アンヌの妹
母親が亡くなったことでフラゴナール夫妻がパリに呼び寄せたのはマルグリット14歳の時です。
読み書きも出来ない田舎娘に、あらゆることを教育して、デッサンをはじめ画家として稼げるまでに導いたフラゴナールにしてみれば、単なる弟子以上の存在なのは間違いのないところでしょう。
絵画だけではなく、最初の愛の手ほどきも おそらくしただろう とか、
逆に実らぬ恋の相手だったとか、
普通に妹として可愛がった、とも色々いわれていますが、真相はわかりません。
ただマルグリットはかなり我の強い性格で、彼女の絵からは、師匠であるフラゴナールの影響はあまりなさそうです。
フラゴナールとの共作も何点かありますが、むしろ師匠の方が影響された面があった様です。
やがてやってくるムーブメントである新古典主義を理解しようとしなかった老師に対して若い娘弟子は親近感を持っていた様です。
まもなく、絵を描かなくなる師匠を凌ぎ画家として全盛期を迎えたそうです。
もし老フラゴナールが本当にマルグリットに、恋心を抱いていたとするならば、
なんとなくですが「痴人の愛」の作家、谷崎潤一郎の義妹との関係を連想してしまいました。
息子アレクサンドル・エヴァリスト
フラゴナールは義妹だけでなく妻にも絵を教えていた様で、マリー・アンヌも玄人並の絵の腕前だったそうです。
元々ジェラール家の人々は絵の才能を持っていたのでしょうか。
そんな環境で生まれ育った息子、アレクサンドル・エヴァリストの絵画の才能は早熟で、12歳にしてサロンに素描を出品。それ以降、一時を除いて毎年出品していたそうです。
元来子供好きのフラゴナールですが、晩婚でしたから子供を儲けたのも年をとってからのこと。
長女が18歳で病没してからは一層、息子への愛情は強かったとか。
一方で息子は父をどう思っていたのでしょう?。
反抗期からか、父の絵画を元にした版画を焼いたこともあります。
フラゴナールの没後、この画家の業績を後世に残そうと伝記資料をゴンクール兄弟が探し始めた際も協力的ではなかったそうです。
画家として作品を残している息子エヴァリストですが、父ほどの技量はなかったといわれてます。
(ベルト・モリゾの父方の祖母の肖像画「モリゾ夫人」を描いたのがエヴァリストです)
世間に対して父の存在が何かと重荷になっていたのでしょうか。わかりませんが・・・。
フランス革命勃発と悲哀に満ちた晩年。
1789年、フラゴナール57歳のこの年にフランス革命が起きます。
革命勃発の少し前くらいから、世間の趣味が変わり初め、神話など古典を題材に描かれる「新古典主義」が主流になってきます。
現実の日常での人間の情熱や欲望を表現する作風(ロココ様式)は流行らなくなり、フラゴナールも、料金は払われても作品を突っ返されたり、徐々に絵の発注が無くなってきたそうで、革命勃発後は絵の制作をほとんどしていない様です。
友人の画家ダヴィッドの力添えにより、美術館として誕生したルーブルで実務と作品保存の業務に携わります。
展示作品の決定、コレクション整理、収蔵品目録の作成など有能な仕事ぶりから館長も務めます。
若き日にアカデミーの準会員になった1765年以来、他の著名画家たちと同じ様にルーブル宮殿内にアトリエを持ちそこに住んでいるのですが、1805年、73歳の時に40年住み慣れた宮殿内から追い出されてしまいます。
フラゴナールだけではなく、ここに住う他の画家たちも同様にですが。
前年皇帝となったナポレオンの令によって、ルーブル美術館の改装が着手されます。
諸外国遠征で掠奪してきた沢山の美術品の収容場所に困って画家たちからアトリエを取り上げたそうです。
ルーブル宮の隣パレ・ロワイヤル内の借家に移り住み(65歳の時に家を購入しているみたいですが、その家はどうなったのかな?)、翌年の8月、この借家で脳溢血で倒た翌日に亡くなります。
好色で友人も多く、人に好かれた画家は晩年の自身をどう感じていたのかな・・・。
フラゴナールの死亡記事が新聞に掲載された時、人々は
「まだ生きていたんだ」と驚いたそうです。