微乳のぽっちゃり少女が好き?。王の画家にして画家の王ルーベンスの生涯とフェチ

ルーベンスの描く裸婦は

色艶の良い肌と生命力溢れる豊満な肢体。

対照的に小振りな胸。

「平たすぎず、柔らか過ぎず、慎ましく覗かせる」

と本人は言ったそうです。

シモンとペロ 1635年頃 アムステルダム国立美術館

2回の結婚は10歳以上歳の離れた女性でした。

もしかしてルーベンスは微乳豊満少女フェチでしょうか。

不義密通の父と生い立ちから画家になるまで

ポール・ポンティウスによるルーベンス シカゴ美術館

画家 ピーテル・パウラ・ルーベンス

天から何物もの才能をあたえられ、その才能を遺憾無く発揮してスマートな人生を送った印象を受けます。

誰もが、「話をしてみたい」、「繋がりたい」、と 思わせる魅力的な人だった様です。

1577年、両親が信仰上の事情でドイツに亡命中、ジーゲンという街で生まれます。

父ヤン・ルーベンスは優秀な法律家。亡命先ドイツのケルンで、主君の妃の法律顧問を務めるのですが、こともあろうに妃との不義密通を犯し投獄されます。

姦通罪で死刑を宣告されるものの、様々な事情から保釈されます。

死刑を免れたのは雇い主であるお妃さまからのセクハラだった可能性も想像できそうです。

保釈後ジーゲンに移り住み、そこでピーテル・パウラ・ルーベンスは誕生します。

ルーベンス一家は移動の自由が許されるとケルンに戻るものの財産は殆どなく、出獄したばかりのヤンは職にも就けず一家は貧乏暮らしでした。

それでも、しばらくするとヤンは弁護士として活動できて収入を回復したようです。

スザンナと男たち 1614年 スウェーデン国立博物館

一家の経済状況がようやく安定したころ、ルーベンスが生まれたときにはすでに高齢であった 父ヤンは亡くなってしまいます。

ピーテル・パウラ・ルーベンス、このとき10歳。

一家は出身地の南部ネーデルラント アントウェルペンに帰国します。

外国で生まれた 仲の良い3歳年上の兄とルーベンスにとっては初めての両親の出身地です。

ちなみに、アントウェルペンは「フランダースの犬」の舞台となったところで、ネロとパトラッシュが事切れる時見詰めていたのがルーベンスの「聖母被昇天」という絵なのですね。

アントウェルペンでは、兄とともにラテン語の学校に通い、その後ある貴族の小姓を務めます。

語学学校はそんなに長く在籍してはいないようですが語学の才能はかなりの様で、

また 小姓としての仕事は、宮廷的な礼儀作法を学ぶ機会となったかもしれません。

これらは後の人生で大いに活かされることになるのですね。

そしてまもなく、絵描きになりたいと思うようになるのです。

きっかけは・・・、わかりませんけど・・・。

14歳で地元の画家の工房に弟子入りをし、三人の画家から絵を学びます。

三人目の師匠、オットー・ファン・フェーンはルーベンスと同じ中産階級の出身で、語学や古典文学に素養を持ち、ローマ留学の経験もあります。

ルーベンスにとっては様々な影響を受ける出会いとなったと思われます。

21歳のとき画業協会に親方画家として登録されて、一人前の画家として弟子をもつことも許されます。

そして師匠と同じように、憧れの地イタリアへ向かうのです。

そのイタリアで、マントヴァ公の宮廷画家の地位を得ことになり、長期滞在の経済的心配はなくなります。

公の宮廷画家に成れたのはベネチアで偶然、公の家臣と出会って絵を見せたことが きっかけだったようです。

ルーベンスはいつだってタイミングよく様々な出会いがもたらす、彩りのある人生を送ることになるのです。

イタリアから帰国して故郷に永住、結婚

狼と狐狩り 1616年 メトロポリタン美術館

人と機を見るのに敏感で人間的魅力に溢れる人だったルーベンスはマントヴァの宮廷の一員となって、画家としてだけではなく外交に関する仕事も任されるようになった様です。

31歳のとき、母危篤の知らせを受けてアントウェルペンに帰郷します。

この機にマントヴァの宮廷画家の職を辞めてしまいます。

ですが、実際には母危篤の知らせを受ける前にお母さんは亡くなっていました。

マントヴァの宮廷画家の職を辞して帰郷したルーベンスですが、宮廷画家を勤めながら公務で滞在していたローマでは宮廷とは関係ないところからも絵を受注をされて作品を制作していました。

なのでイタリアに戻るか、故郷に留まるか悩んだみたいです。

帰郷した翌年、様々な事情から故郷に永住することに決めました。

宮廷に入らず、アントウェルペンに留まったままでもよい等、破格の条件を提示されて、

ネーデルラント(スペイン領 南部ネーデルラント)総督アルブレヒト大公とイザベラ妃の宮廷画家になります。

 

ミュラー アルブレヒト大公の肖像 1615年 
アムステルダム国立美術館

絵画工房を設立します。

そして、結婚します。

また、社会情勢として、オランダとスペインが12年間の休戦協定を締結したことも関係しているのでしょうか。

ネーデルラントに於けるオランダとスペインの80年戦争については後ほど。

ちなみに、

絵画作品は最初から最後まで画家 一人の手によって描かれるものと思っていたのですが、

絵画工房は沢山の優秀な弟子を雇い、量産体制で絵画の受注をし、弟子たちと共に制作を行なっていたのですね。

アケロスの饗宴 1615年 メトロポリタン美術館  ヤン・ブリューゲルとの共作

もちろん、最初から最後までルーベンス自身で手掛けた作品もあります。

1610年代は、かなりの点数の祭壇画や肖像画を手掛けただけでなく、本の挿絵、タペストリーの下絵などもこなしていた様です。

また、イタリア滞在期間に集めた絵画や彫刻作品のコレクションを観るために国外からルーベンスを訪ねて来る宮廷人や知識人も多く、ヨーロッパではその名を広く知られるところとなった様です。

ルックス良く、画家として天才的で、教養があり数ヵ国語を話せて、商才もあり社交的、コミュニケーション能力の高い人だったそうですから多くの人からの信用信頼も獲得できたのでしょうね。

そんなルーベンスは、オランダとスペインの12年間の休戦協定失効後の和平工作の為の公式・非公式の外交官として活動をするのです。

80年戦争と外交官絵描きの活躍

ペレウスとテティスの結婚式 1636年 シカゴ美術館

ルーベンスの生涯は、生まれた日から亡くなる日まで全てが、80年戦争の歴史と重なっています。

80年戦争(もしくはネーデルラント独立戦争、オランダ独立戦争)はざっくり言いますと、

1568年から1648年にかけて、

スペイン領ネーデルラント(現在ではオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにあたる地域)で本国スペインに対してネーデルラント北部7州が独立を宣言してオランダ連邦共和国を建国するに至る戦争です。(ほんとにざっくりです)

1621年 12年間の休戦協定が失効。

同じ年にネーデルラント(スペイン領 南部ネーデルラント)総督アルブレヒト大公が死去。

自治権が強行姿勢の本国スペインに戻されて、また激しい戦火に覆われることが危惧されます。

南部ネーデルラントの実質的統治者であるイザベラ大公妃はオランダ(ネーデルラント北部7州)との争いを望まず、自領の平穏な繁栄を望んでいるのです。

多くの宮廷や知識人に顔が広く、イザベラ大公妃からの信頼の厚いルーベンスは政治・外交に関する助言者的立場でもあった様で、大公妃の私的外交官として政治に関わるようになるのです。

ルーベンスは外交、和平交渉のために積極的にヨーロッパ中を飛び回ります。

ミュラー イザベラ・クララ・ユージニアの肖像 1615年 
アムステルダム国立美術館

この頃(1626年)最愛の妻イザベラ・ブラントを亡くしています。

積極的に政治へ関わり、和平交渉の為の奔走するのは、その悲しみから逃れるため、もしくは立ち直ろうとする思いもあったのでしょうか。

イザベラ大公妃の命で、スペイン領 南部ネーデルラントとオランダ(ネーデルラント北部7州)の不和を解消しようと画策するルーベンス ですが上手く行きませんでした。

ルーベンスの知らないところで、スペインとフランスが秘密裏に、イギリスを攻めようと同盟を結んだためです。

イギリスは、ネーデルラント北部7州に影響力を持つ国です。

スペイン・フランス同盟に対処しなければならないイギリスに対して、同盟国フランスがなかなか動いてくれないので焦れるスペインは対話をする意思をみせます。

ルーベンスはイギリス国王の代理という立場でスペイン・マドリードへ赴き両国の交渉の下地を作ります。

まもなく両国が本格的に交渉に入りそうな雰囲気になったとき、イギリス側の関係者の暗殺が起き、皆が様子を窺うように静観します。

ルーベンスも現地で慌てることなく、存分に絵を描いていたり、当時スペインの宮廷画家を務めていた若きベラスケスと出会い親しくなったりして過ごします。

そんな状況を経て和平交渉が再開されることになり、今度はスペイン国王 フェリペ4世の正式の命により

ネーデルラント枢密院書記官 の称号を与えられてイギリスへ赴きます。

先の南北ネーデルラント和平交渉の折、

「画家に政治を任せるなんて」と叔母であるイザベラ王女を手紙で激しく なじっていたのはフェリペ4世でした。

ルーベンスはイギリス・スペイン和平交渉が宙に浮いたままの間に、フェリペ4世と重臣たちを自分の味方につけることに成功していたみたいです。

ルーベンスには人を惹きつけ「信奉者」にしてしまう才能があるようですね。

イギリス側でも、絵描きを外交特使として派遣してきたことに、イギリス国王チャールズ一世は「ぜひ知り合いになりたい」と好意的だったといいます。

三ヶ月の粘り強い交渉により、イギリスとスペインは友好国として手を結びます。

ルーベンスは外交官としての任務を終えて帰国します。

政治に関わることはこれでお仕舞いにして、余生は画業に専念するつもりです。

年齢の離れた二人の「最愛の妻」

愛の園-左部分のデッサン 1633-35年 メトロポリタン美術館

ルーベンスは生涯に、二回結婚をしました。

二回とも10歳以上歳が離れた女性でした。

最初の結婚は32歳のとき。

ルーベンスがイタリアから帰国して、ネーデルラント総督アルブレヒト大公と妃イザベラ王女の宮廷画家になった年のこと。

この年の春、ルーベンスの兄が結婚します。

「兄はとても素晴らしい女性と結婚をした。とても真似はできないから自分の結婚は当分ありそうにない」

そう漏らしていたそうですが、その兄嫁の姪と出会い一目惚れをします。

そして結婚をします。

イザベラ・ブラント 18歳です。

14歳の年齢差でした。兄の結婚からほんの数ヶ月後のことです。

ルーベンスと最初の妻イザベラ・ブラント アムステルダム国立美術館

資産家でアントウェルペン市の書記官の娘さん。

ルーベンス曰く、「女性として ありがちな欠点が全くなく、誠実で賢く心の暖かい人」だったそうです。

女性としてありがちな欠点とはなんですかね、まぁ置いておきましょう。

その愛する妻が32歳の若さで亡くなるのは、イザベラ王女からの信頼で政治に関わる様になった頃。

「妻の死にひどく打ちのめされている。最愛の妻の思い出を胸に抱いて生きる限り、この悲しみを拭い去ることは難しいでしょう」

と友人に宛てた手紙で思いを打ち明けているそうです。

この悲しみが外交官活動にのめり込む一因となったと言われてます。

2度目の結婚は、外交官としての任務を終えてアントウェルペンに帰国した年の12月。

16歳の少女 エレーヌ・フールマンとです。

アントウェルペンの富裕なタペストリー業者でルーベンスと旧知の人物の娘さん。

36歳の年齢差・・・ルーベンスの長男と同い年なんです。

ルーベンスとエレーヌ 1635年 メトロポリタン美術館

年若き妻を迎えるにあたり、友人への手紙でこのときの心境を吐露しています。

「まだ独り身で暮らす気になれず結婚することにした。妻に迎えた娘は若く、誠実な市民階級の良家出身」

「自由と引き換えに、盛りの過ぎた女性の愛撫を受け入れることは厳しい」

ルーベンスはこの時点で貴族の称号を得ています。

貴族階級の女性を選ばなかったことについては

「貴族の女性は生まれつきプライドが高く、私が絵筆を手にしても顔を赤らめない人を選んだ」

先妻イザベラ・ブラントの妹とエレーヌの兄の一人が結婚していることもあって、

もしかしたら幼少期の頃から知っている少女をお嫁さんに迎えたことになるのでしょうか。

そんな身近なところから妻となる女性を選ぶなんて、一体どんなやり取りを経た上で結婚に到るのか、ちょっと興味が湧きますね。

エレーヌにしても父親程に年齢の離れている ”おじいちゃん” のお嫁さんになる理由って何だろうと考えてみても、・・・やっぱり地位、名声、お金なのですかね。

画家、工房経営者、美術品蒐集家、鑑定士、外交官としてヨーロッパ中の宮廷人や知識人と知り合い、友人もたくさんいたことでしょうし、加えて相当な資産家でもありますから。

金色の髪と健康的で輝く肌に小さく慎ましい胸と太り肉な肢体 。

 それが巨匠画家の好みであるのならば、エレーヌはまさにルーベンスの理想の女神、これ以上ないインスピレーションの源泉だったのでしょう。

晩年

エレーヌ・フールマンの肖像 アムステルダム国立美術館

イギリスとスペインの和平成立を叶えることができた達成感はあっても政治、外交の仕事はもうやらないで画業に専念すると決めたルーベンスです。

度々外交の場に引っ張り出されそうになりますが、悠悠自適の日々です。

多くの不動産を所有して賃貸業を営み、郊外に大農場とお城とその領主権を購入したりしています。

本業の画業も、多くの弟子と共に絵画の受注制作を精力的にこなし、私的な作品もたくさん残してます。

エレーヌをモデルに描かれた「毛皮ちゃん」はその一つですね。

そんなルーベンスですが外交官時代に患った痛風にずっと悩まされていました。

帰国してから約10年、症状はいよいよ悪化します。

死期を悟ったのでしょうか、公証人に厳密な遺書を作成してもらい署名します。

間も無く3日後なくなります。

1640年5月30日  ピーテル・パウラ・ルーベンス没  享年63

ルーベンスは王侯貴族並みの資産家です、負債もなく。

妻エレーヌと5人の子供たち(5人目はエレーヌのお腹の中です!)と前妻との子が二人、

残された愛する家族が遺産を巡って争わないように遺書には厳密で平等な財産分与が記されていたようです。

けれども、どんなに心をくだいてみても相続争いは起きてしまったようです。残念ですね。

ルーベンスが亡くなった8年後の1648年

ネーデルラント北部7州がオランダ連邦共和国として独立が承認されます。

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