世界中で誰でもが知る画家のひとりグスタフ・クリムト。
クリムトは作品だけでなく数々の女性と関係を持ったことでも知られてますね。
社会の上流、下層に関わらず多くの女性たちと関係を持ち、モデルとしてアトリエにやってくる女性たちとの間にそれぞれに私生児もいたそうですね。
プロフィール
1862年7月14日 ウイーン郊外の街バウムガルテンで生まれる。
七人の兄弟姉妹の第2子で長男
父は代々の彫金細工職人、母は生まれながらの盲目ではあったがオペラ歌手を目指していたこともあり、クリムトは両親から芸術的素養が育まれた様です。
金細工はウイーンに住む上流階級に対する需要はあるものの、一家の経済状況は、あまり裕福ではないどころか貧困に喘ぐ状況だった様です。
14歳のとき、オーストリア 芸術・産業美術館付属工芸美術学校に二人の弟と共に入学します。
絵画の才能に恵まれたクリムトは教授たちに愛され、弟エルンストと画家仲間フランツ・マッチェと3人で フェルディナント・ラウフベルガー教授の助手を務めたり、ラウフベルガー教授の斡旋で装飾美術の仕事を手掛けます。
そして卒業後3人は建築装飾を請け負う会社を設立します。
折しもオーストリアとその周辺の国では建築ラッシュで、学校の教授たちの推薦もあって、仕事は引きも切らず舞い込み、経済的にも豊かになって行きます。
それでも良い状況はいつまでも続きません。
クリムト30歳のとき、6月に父が、12月に会社の構成員でもある弟のエルンストが亡くなります。(享年28)
そして会社は解散となります。
その後、建造建築の装飾を個人、またはマッチュと共に受注、
大学天井画「哲学」「医学」「法学」を制作(1896年 34歳)
分離派結成に参加、初代会長に就任(1897年 35歳)
第1回ウィーン 分離派展開催(1898年 36歳)
という流れになっていきます。
アルマと出逢う
当時のオーストリアの美術・芸術界を牛耳る協会団体、キュンストラーハウス ”芸術家の家”。
クリムトとその一派は協会を脱会して分離派を結成します。
時系列的には既にヨーロッパの、オーストリア以外の国の美術界で起きている動きで、(フランスで起こった 印象派 もその一つというところでしょうか)
保守的で閉鎖的な、古い権威ある体制から離れ、時代に即した自由な芸術活動を掲げて旗揚げされた集団。
けれどもどんな御大層な理想を掲げても、その思いを披露する会場を見つけなければなりません。
支援者を求め、資金を集める。
そんな面倒な実務を一手に引き受けたのがカール・モルでした。
有名な風景画家エミール・シントラーの弟子でアシスタントを務めた画家で、画商。
ウイーンの芸術界にはなくてはならない重要な人物です。
師匠の死後、既に愛人関係にあった師匠の未亡人アンナと結婚。
師匠の娘たちの後見人でもあります。
これをきっかけにクリムトはモル家をしばしば訪れることになり、モルの義理の娘 アルマと出逢います。
後に数々の芸術家との色恋沙汰人生を送るこの女性の心を熱くした最初の男がクリムトだと言われてます。
まぁアルマはこの時すでにクリムト以外の複数の歳上の男たちを惑わせて楽しんでいた様ですが・・・
この時(1896年)、アルマは 17歳、クリムトは34歳。
既に画家として装飾家として不動の地位にある無口な男は、この頃には有名な服飾デザイナーのエミーリエ・フレーゲと内縁関係にあることを世間は知っています。
アルマもその事を知っていると想像できますが、なぜクリムトに惹かれたのか、クリムトの存在自体が訳もなく女性を惹きつけるのかわかりませんが、二人は互いに惹かれあっていたそうです。
・・・本当に?。
アルマの母アンナはこの関係に冷却期間を置こうと考え、モル一家はイタリア旅行へ出発します。
その旅行をクリムトは追ってきます。行く先々を追ていきます。
相思相愛だったとしてもストーカー行為ですね。
どんなタイミングだったのか、母アンナは娘の日記にクリムトと唇を重ねた記述を見つけます。
アンナはクリムトに対して、娘に姿を見せない様にキツく言い渡します。
禁じられれば禁じられるほど気持ちはさらに熱くなるのでしょう、アルマとクリムトは一家の監視を欺き異国の街でデートをして愛を誓い合います。
身体的に二人が重ね合ったのは唇だけだったそうです。
この頃のアルマは自身の処女性をしっかりと守るつもりだったそうです。
ただそれもいつまで保てるのでしょうか・・・。
イタリアから帰国後、モルはクリムトの訪問を一時的に禁止します。
筆無精のクリムトがモルに宛てて謝罪と言うより、一生懸命な言い訳の手紙を送ったそうです。
「アルマは見目麗しく知的で、男が女性に求めたくなる全てのものを備えているのです。
そんな女性を目にして脳がまともに機能しなくなってしまうことをご理解いただけないでしょうか。」
自宅を出入りする芸術家たちにちょっかいを出しては勘違いをさせて楽しんでいる小娘アルマの悪戯に乗っかって、あわよくば自分の思い通りにという下心があったのでしょうか・・・。
ただこの時のクリムトは、モルの機嫌を損ねた事ばかりを気にしているようで、手紙の中でアルマについての言及はほんのわずかだったそうです。
その後クリムトとアルマは友人として顔を合わせることもあった様ですが、二人の色恋沙汰はお仕舞いになったのでしょうかね。
クリムトと同じ名前の音楽家、グスタフ・マーラーとアルマが出会った友人主催の夕食会の席にはクリムトも同席していました。
アルマに恋をしたマーラーはこの場でまた逢うことを約束させて、早速翌日から猛烈アプローチをするのです。
クリムトとアルマが”愛を誓い合った”日から5年後のことです。
まぁ、その後のマーラーとアルマのお話はクリムトには関係のない事ですが。
クリムトのアトリエには裸のモデルたちが複数人常駐していた?
クリムトのアトリエにはモデルを務める為に複数の女性が出入りしていました。
依頼された肖像画や絵画作品のモデルを務めた貴婦人たちの他にも、貧しさからヌードモデルをしていた女性たちです。
クリムトがシーレに紹介し、付き合っていた恋人ヴァリー(ヴァレリー)もクリムトのモデルをしていたひとりです。
クリムトの友人たちの証言によれば、
アトリエでは画家が黙々と仕事をしている間、その周囲には数人の裸の女たちが何もせずに待機していて、
だけれども、画家がウインクを向ければ、たちどころに動きを止め、指示に従い自慰も厭わない。
または同性愛者や男女の恋人たちを演じます。
クリムトはそれを描き留める。
こうして画家は絶え間なく「女」を描き続ます。
クリムトは彼女たちに手厚いモデル料を払っていた様で、彼女たちは画家の仕事の合間、快楽の為の”ご奉仕”もしたようですね。
そうした女性たちの中にはクリムトとの間に子供を授かった人もいて、クリムトの死後14件もの養育費請求が申請され、うち4件は請求が認められたそうです。
画家も生前に3人の子供については認知して、母子の経済状況を支えた様です。
マリア・ツィマーマン(通称ミッツィ)の様に画家が亡くなるまで関係が続いた人もいます。
クリムトの女性に対する欲張りぶりは、アトリエにやってくる経済的に貧しい女性たちだけでなく、上流階級の貴婦人たちにも向けられていたといわれてます。
アルマのときのように上手くいかない場合もありますけど・・・。
銀行家一家の出で、砂糖工場経営者の妻、有名な「ユーディットI」、「ユーディットII」のモデルとされるアデーレ・ブロッホ・バウアーと関係を持っていたのは、ミッツィ・ツィマーマンと関係を続けている時期と重なります。
「ソーニャ・クニップスの肖像」に描かれるソーニャもウィーンの有力者の夫人です。
結婚前からクリムトとの関係があったようです。
その肖像の中でゾニアが手にしている赤い表紙の手帳はクリムトが親愛なる彼女に贈ったスケッチ帳です。
描き込む必要があったのでしょうかね・・・。
クリムトの女性遍歴と言っても、数々の女性たちとのエピソードは、遍歴というより大体において同時進行の様です。
クリムト研究者にとってはクリムトの女性遍歴を辿ることで作品の制作された年代やそこに込められた意味などを知る手がかりを見つけようとするみたいですが、それにしても、
溢れる芸術的霊感の源が「女」であろうこの画家はセックスモンスターの如き印象も拭えないですね。
エミーリエ・フレーゲという存在
1918年1月11日、クリムトは脳卒中の発作を起こします。
その時
「エミーリエにそばに来て欲しい」と望んだそうです。
クリムトと長く内縁の関係にあったとされる特別な貴女
エミーリエ・フレーゲは服飾デザイナーにしてブティックの経営者
このブティク「フレーゲ姉妹」は姉たちと経営し、お店を訪れるお客は富裕層ばかりです。
第一次世界大戦の最中でさえ客足は変わらず、戦後の不景気も経営に影響することはなかったそうです。
1891年グスタフの弟エルンストがエミーリエの姉へレーネと結婚します。
これを機にフレーゲ、クリムト両家の親戚付き合いが始まったのでしょう。
この時グスタフ29歳、エミーリエ17歳でした。
グスタフによるエミーリエの最初の肖像画はこの年に描かれたようです。
すでに売れっ子の装飾も手掛ける画家と、しばらく後に当時としては奇抜なデザインのドレスを手掛けるデザイナー。
フレーゲ姉妹のブティックはクリムトも関わっているウィーン工房のクリエイターたちによって内装されたそうです。
二人が共同で制作したドレスもあり、クリムトの絵画の中での布地の模様や装飾のインスピレーションに発展するのでしょう。
クリエイターとして互いの仕事から刺激と影響を受けているみたいですね。
グスタフ・クリムトは女性に強欲で数々の女性と関係を持ちその女性たちとの間に子供を儲けています。
でも”伴侶”といわれたエミーリエとはプラトニックな関係だったと世間では思われてもいたようです。
二人は結婚はおろか同棲さえせず、それぞれが自分の親と姉、妹と暮らしていたからでしょうね。
クリムトの女性関係を家族もエミーリエも(そして世間も)知らないわけはないでしょう。
貧しかったクリムトは裕福になっても家族を自分から切り離すことはできなかったのでしょう。
クリムトの妹ヘルミーネによれば、
毎日家族(母と二人の妹)の元に帰ってきて、黙って食事をして寝室に行く、家庭的で社交的ではなく、むしろ孤独な人物だったそうですが、実際的には常にそうだったわけではなく、これは一面にすぎないともいわれてます。
グスタフ・クリムトは”誠実な人”とする根拠、であると思いたい論もあるようです。
親戚のおじさんとお嬢さん、という間柄の二人がどんな経緯を持って緊密な関係になっていったのでしょうか。
始まりは、身近にいる芸術家クリエイター同士、センスや相性何かしら惹かれ合うものがあったのでしょうか。
クリムトにとっては、肉欲や劣情の霧散してしまう絶対領域の中心に座す大切な存在なのでしょうか。
クリエイティブで自らをブランド化し、経済的にも自立して、誰に依存することもなく生きる女性、そんなエミーリエをグスタフ・クリムトはかなり強くリスペクトして信頼していたのでしょうか。
そんなグスタフ・クリムトを、エミーリエはどんな思いで親密な人生を共有したのでしょうか。
分かるわけありませんね、二人以外に。
クリムトの影響を受けた”弟子”シーレのお話はこちらです。