女性が職業画家になること自体が考えられない時代(ましてや富裕層の子女が働くなんて)、
若き日に画家になる決意をし、同じ志を持った同世代や先輩と出会い、
いつしか、その仲間たちの中心になって新しい表現を確立してゆくベルト・モリゾ。
この人の人生のドラマに触れてみると、なんだか 朝ドラのヒロインのモデルになりそうだなと、なんとなく思ってしまいました。
まぁ、ドラマのヒロインの様な 爽やかな人という印象はないのですが・・・。
ブルジョワの娘さんが絵描きを目指すきっかけは
1841年1月14日 フランス ブールジュに生まれる
同じ年にルノワール、前年にモネが生まれています。
ベルトには イヴとエドマ、姉が二人います。
県知事を務めた父エドム・ティビュルス・モリゾは 後に、高級官僚の職を得たので、一家はパリに隣接する村にお引っ越しします。ベルト11歳のときです。
モリゾ家はブルジョワです。
ベルトが絵を習うきっかけは、母が夫の誕生日に娘たちに絵を描いて贈ろうと提案したことに始まります。
ベルトと二つ上の姉エドマはことのほか熱心に取り組んだ様で、
母はあくまで”お稽古事”のつもりで二人を、女の子でも受け入れてくれる画家ギシャールの画塾で絵を学ばせることにします。
二人は元々、絵の才能があったのでしょう、
「このまま絵を学ばせていては、二人は画家になってしまいますよ」
ギシャールから母親宛の手紙にはこんな”警告”が記されていた様です。
ブルジョワの娘たちは何かしらの習い事をします。
でもそれは職業訓練の為では当然ありません。
いずれ若くして、どなたかのお嫁さんになるのです。
あくまでも”良き妻”の嗜みを身に着ける為のお稽古事の一つです。
(ちなみにベルトが絵に関心を持った一番最初のきっかけは、音楽のお稽古で訪れた音楽家の自宅の壁に飾られていた素描をみた時からとも言われている様です)
それでも姉妹の両親は芸術に理解があり二人を応援します。
父エドムは家具職人の息子で自身は建築家を目指してました。
また、エドムの母は画家エヴァリスト・フラゴナールの子孫なのだそうです。(知っているが故に秘匿していた可能性)。
母も若い頃、音楽家を夢見ていたとか。
しばらく後に、父は二人に小さいながらもアトリエを用意します。
ルーブル美術館で出会う人々
ギシャールの元で腕前を上げているエドマとベルトは、ルーブル美術館で名画を模写することを師匠から許されます。
ルーブル美術館は年齢、性別、社会的階層を問わず全ての人、画家や画学生の為に開放される日があります。
そんな日は展示された名画を模写することが許され、普段は静かなギャラリーは祭りの様な賑々しさです。
女性が絵を学べる場所は本当に多くはなかったこの時代、モリゾ姉妹にとって、ここでの名画の模写は良い学習の場となったのでしょう。
人が集まれば交流の場にもなります。
若く見目麗しい姉妹に目が止まれば邪な思いを抱いて近づき話しかける輩もおりますが大丈夫、
姉妹の背後には近付く輩を、編み物をしながら監視するママンがおりますから。
それでもエドマとベルトにとって、かけがえのない出会いがあります。
画家アンリ・ファンタン・ラトゥールが姉妹に話しかけます。
誠実で思いやりのある人物と評されるラトゥールは絵描き仲間の中心的存在で、ラトゥールを通じて多くの芸術家の友人ができるのです。
ふたりの師匠ギシャールがモリゾ姉妹と会う様に仕向けたという説もあるそうです。
そしてモリゾ姉妹とは友情を越えた交感もあった様ですが、そのやりとりは、互いに内気な様子で実を結ぶには至らなかった様です。
ルーブル美術館での名画の模写では物足りなさを感じ出したベルト
師ギシャールは、神話を題材にとった古典より、戸外で自然や日常を描くことを奨励します。
ベルト自身も自然を描くことを望みます。
この頃、まだ出会ってはいないのですが、のちにベルトの仲間となる、
モネ、ピサロ、ルノワール、バジール、シスレー等は、もう既に 屋外の美しい自然の景色の中で作品を制作してます。
ギシャールは友人である風景画家カミーユ・コローを紹介します。
コローはフランス中を歩き回り、戸外で絵を描く絵描きです。
創作に差し支えるから、と頑固に独身を貫き、
また、人の喜ぶ事を好み、頼まれごとには嫌とは言えない お人好しのおじさんでもあります。
光や大気や風を繊細にとらえる画風と人柄がモリゾ姉妹を虜にした様です。
姉妹はコローおじさんを自宅の夕食会に招き、モリゾ家の常連客になります。
マネとの出会い
ルーブル美術館で、モリゾ姉妹が模写をしているところにラトゥールに案内されてマネがやってきます。
「オランピア」「草上の昼食」で世間で騒がれ、大ひんしゅくを買っているスキャンダラスな画家。
そんな世評から、体制に批判的な横柄な人物のイメージを抱いていたのでしょうか、けれども眼の前の人物は、優雅でお洒落で、優しさに溢れた笑顔の物腰の柔らかな人好きな紳士でした。
姉妹とマネはどんな会話を交わしたのでしょうか、
この邂逅により、ベルトとマネは互いに相手に対して好奇心を抱き、マネはまた会う事を申し出ます。
モリゾ家とマネ家は共にブルジョワで、住んでいる家も近いことから、家族ぐるみの付き合いが始まります。
そして間も無くベルトはマネのモデルを務めることになります。
マネがベルトにモデルを依頼するきっかけは、ステヴァーンスがベルトをモデルに描いた肖像画を贈られたことがきっかけだったそうです。
その肖像のベルトに何をみたのでしょう。
出会った当初マネは画家としてのモリゾ姉妹には、あまり興味を抱かなかったとも言われてます。
マネにとって女性とは、友人であり、愛人であり、絵画のモデルであり、女性が画家という仕事をやっていけるという発想はなかったらしいです。
マネにはエヴァ・ゴンザレスという女性の弟子を抱えているのですが、職業としての女性画家を想像できないのは、この時代の一般的な考えなのでしょうか。
一方のベルトは姉と共に一途に、内に秘めたストイックさで絵画に打ち込み続け、最初の師ギシャールの技量を越え、コローの教えを身につけるくらいになります。
官展にも何度か入選するようになりました。
ですがマネと出会った翌年、姉エドマが結婚することになりパリを離れます。
求婚者の猛烈なアプローチに根負けしてのことだそうですが、ベルト以上の絵の才能があると目される姉は、結婚を機に画家の道を断念せざるを得なくなります。
画家を目指す以前からこの姉妹は「互いが自身の一部」と思えるくらい強い絆で結ばれていたようで、そんな姉と共に絵描きであることがベルトにとってどれほど心強いことだったでしょう。
この時ベルトは28歳。
娘たちの絵の才能を伸ばすことを応援してきた母コルネリーも、この頃になるとベルトにも結婚して欲しい気持ちを憚らなくなります。
心の支えである姉エドマがそばに居らず、孤独の中で制作を続けるベルトにとって、マネはかけがえのない存在になってゆきます。
モデルを務めることでマネから学び、影響を受けます。
マネもまたベルトから影響を受けます。
やがてマネもベルトを画家として対等の気持ちで接すようになっていくようです。
ベルトをモデルに11点の油彩作品を残しているマネは、妻子ある身で女性好きです。
ベルトは特に、男性としてのマネについて語ったものは何も残されてないそうですが、
二人に恋愛やそれに近い気持ちはあったのでしょうか。
若く美しい結婚前のブルジョワの娘に似つかわしくない猥雑なアトリエにベルトが訪れます。
画家は、情熱を内に秘め 少しの恥じらいを滲ませる若い女を至近距離から観察し、絵筆を動かす。
自身も画家であるベルトは、自分を見つめる画家を意識する。
官能的な時・・・劣情を催しても何事も起きません。
だってここにはママンも居ますから。
1874年多忙な年、父死去、第一回印象派展、そして結婚
1874年1月、ベルトの父エドム・ティビュルスが亡くなります。
4月、第一回印象派展が開催されます。
モネ、ドガ、ルノワール、シスレー
この時はまだ無名の、後に「印象派の画家」として後世に名を残す若き絵描きたちが企画運営するグループ展。
伝統や格式、古い価値観に縛られない自由な発想と表現の場にベルトも参加します。
印象派展は1886年まで8回開催され、ベルトは7回参加します。
ベルトと夫は、次第にグループの中心的な存在となって、みんなを取りまとめていくようになります。
そう夫です。
この1874年の12月、ベルト・モリゾは結婚をします。
お相手はエドゥアール・マネの弟、ウジェーヌ・マネです。
若く(この年33歳)美しいベルトに求婚者は数多いたでしょう。
その中でウジェーヌを選んだのは、エドゥアール・マネには妻子がいた為、”仕方なく”弟と結婚した、といわれています。
病気がちな身体とひっこみ思案で愚痴っぽい性格のウジェーヌに対するベルトの第一印象は、
「彼は陰気」。
あまり良くはないようです。(ベルト自身もあまり明るい人柄ではない印象があるのですが)
結婚当初は夫への愛情が希薄だったとも言われてます。
兄の絵画のモデルを務め、二人だけの交感があるように思える美しいベルトに対し、
ウジェーヌもまた激しく想いを寄せていたのでしょう。
おそらくはベルトにしてみれば芸術家として活動するのに都合がいい人、という打算があったのかもしれません。
そんな思惑があったとするなら図に当たります。
ウジェーヌの恋女房への想いはかなりのもの。彼はとことん妻に尽くします。
ベルトが姉エドマと違って、結婚をしても絵筆を折らないで済んだのはウジェーヌの存在があればこそです。
マネ家の三男で身体が弱く内気で自己主張はせず、いつも周りに気を配っている。
職業「不動産所有者」。
親から相続した不動産を元手の金利生活、要するに恵まれた無職です。
ウジェーヌは絵描きである兄をそばで見ていますし、自分でも小説を執筆したり絵を描いたりするので芸術に理解があります。
愛する妻が何の不自由もなく絵を描き続けることが何よりの喜びです。
妻が戸外で絵を描くのなら画材等の荷物運びをします。
画商と交渉したり展覧会に関わる雑務や実務的な仕事を全て引き受けます。
展覧会で妻の絵を展示する際も光の当たり具合だとか、妻の絵が最良の状態で展示されるように尽くします。
そして子育ても。
結婚して4年目、二人に子供が生まれます。
ジュリー・マネ
ベルトは愛娘ジュリーをいつだって少し離れたところから見つめて、観察して描きます。
日常生活や家族を絵画の題材にするベルトにとって、ジュリーは主要なテーマなのです。
子育ては大抵、乳母かウジェーヌです。
ジュリーも大変なお父さんっ子だったそうです。
ベルトの、結婚当初のウジェーヌに対する気持ちが打算に満ちた感情だったかのか、本当のところ分かりませんが、これほどに献身的な旦那さまに対して愛情が芽生えたっておかしなことではないでしょう。
1886年の第8回印象派展の開催に尽力した後、元々病弱なウジェーヌは体調を崩し病の床に伏せることになり、1892年4月妻の看病のかいなく亡くなります。
ウジェーヌは生前、愛妻の個展を開催する準備を進めていました。
ベルトは悩んだ末に夫の遺志を受け継ぎ、夫の死から一月半後に大規模な個展を開催しました。
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