付き合った女性との関係が親密になればなるほど、恐れ慄き逃げ出していた画家エドヴァルド・ムンクなのですが、名前の知られている交際相手の最初の二人は人妻でしたね。
この二人、ミリーとダグニーはムンク以外の複数の男性とも関係を持つ自由恋愛主義者のようで、ムンクが逃げ出しても一向気にすることもなかったでしょう。
ムンクにとっても、ある意味都合よかったのではないでしょうか、想像ですけども・・・。
ただ三人目の女性はそう都合よくは行かなかったようですね。
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危ない気質のお嬢さまの恐怖、結婚脅迫、拳銃暴発
1898年ムンク35歳の年に出会ったのがトゥラ・ラールセンです。
クリスチャニア(ノルウェーの首都、現オスロ)有数のワイン商の娘で、ムンクより4歳下のお嬢さまです。
トゥラに妖しい魅力を感じたムンクが惹かれたようです。
今回は人妻ではないですから誰はばかることなく恋愛を謳歌出来ますね。
ただ、トゥラは我儘放題に育った、我の強いブルジョワ娘なのです。
さらに結婚願望も強かったそうですから、かなり手を焼いたそうです。
次第にムンクもトゥラを疎ましく思うようになります。
この頃のムンクは、様々な地で活動し、パリやベルリンでは評価されるものの、故郷ノルウェーでの評判はあまりよくなかったそうです。
ムンクの作品は部屋に飾りにくい絵と感じる人も多く、個展を開けるけれど、絵はたいして売れなかった為、経済的には苦しかったようです。
裕福なトゥラが貧しいムンクを援助しました。
そしてトゥラは一方的に婚約を宣言、ムンクを激怒させます。
そんな状況で、過労と暴飲が重なり、精神的疲労をもたらし神経症を患うことになります。
療養の為に、各地のサナトリウムを転々とします。
それはトゥラを避ける為でもあったようです。
そんなムンクをトゥラは追いかけたようです。ストーカーですね。
1902年夏、ムンク39歳のとき事件が起きます。
事件現場はムンクのアトリエ。
トゥラは拳銃を持ち出し、
「結婚してくれないのであれば自殺する」
と迫ります。
この修羅場でもみ合ううちに引き金が引かれ、銃弾はムンクの左手中指に突き刺さり第一関節を切断します。
誰も死ななかったことで警察沙汰にはしなかったようですが、こうしてトゥラの激しい恋情に終止符が打たれます。
元来女性への憧憬の念とともに、沼にハマるような恐怖と不安を感じて生きてきたムンクでしたが、その思いを一層強くした出来事だったでしょうね。
その後の恋愛事情
それでも拳銃暴発事件後、完全な女性嫌いになったかといえば、そうではなく、生涯独身でしたが、孤高の晩年に至るまで、情欲の念が無くなることはなかったみたいです。
拳銃暴発事件の翌年1903年40歳のとき、イギリス人のエヴァ・ムドッチと出会います。
心身の療養と芸術活動で各地を行き来するムンクと、ヴァイオリニストで、やはりヨーロッパ中を演奏旅行するエヴァはパリで出会い恋に落ちたそうです。
プラトニックな比較的穏やかな関係だったそうですが、ファムファタール的なものをエヴァから感じていたようです。
40代後半から晩年に至るまでの間にも、大きく歳の離れた若い女性二人が名前を知られています。
インゲルグ・カウリンは、ムンク47~51歳の頃に住み込みの家政婦をしながらムンクだけのヌードモデルも勤めていました。
ムンクとは30歳くらいも歳の差のあるこの少女の裸体画がかなりの点数遺されているようで官能的関係の想像を禁じ得ませんね。
ビルギット・プレストーも何枚もの裸体画を描かれた若いモデルさんです。
すでに巨匠となっている孤独な60歳のムンクが恋情を抱き、告白めいたことを伝えたと言われてます。
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生命力を取り戻したような初老の頃
トゥラと交際を始めた翌年36歳の時に始まり、ムンクはアルコール依存症、神経症の治療の為様々な地のサナトリウム(療養所)で治療をしますが一向良くならなかったようです。
元より心身ともに虚弱な人です。絵は評価されないから貧乏のまま、ストーカーお嬢の存在とか、気持ちを穏やかにさせない事象に事欠かない状況だったからでしょうか。
拳銃暴発で負った左手の負傷も、後年痛みは治らず、それを誤魔化す為にさらに酒を煽ったことでもっと酷くなったそうです。
45歳頃、自殺さえ考えるようになります。
ところがなぜか、この45歳から風が良い方向へ吹き始めます。
1908年45歳の時コペンハーゲンのヤコブセン博士の診療所に入院します。その翌年、
故郷クリスティアニアでの個展が成功して、ノルウェーの国立美術館が5点の作品を購入を決め祖国でようやく認められます。
また、富豪な海運業者が大量に作品を買い上げたことで一気にひと財産を築くことになったそうです。
クリスティアニア大学(現オスロ大学)講堂壁画のコンペに応募すると優勝します。
入院から8ヶ月が経ち、退院する頃には心身ともに健康で健やかになってました。
そこにはかつての鬱々とした「病めるムンク」はいないようです。
健やかムンクさんは祖国に腰を落ち着けて、もうかつてのように自身の内面だけを陰気に見続けるようなことはしません。
コンペで当選をした大学の講堂や、市庁舎などの公共施設や個人の邸宅の壁画を手掛けたり、祖国の自然や働く人々を賛美する作品を制作するようになります。
「私の芸術を通じて、私に生きる事とその意味を明らかにした。
同時に私以外の人々が生きることの意味を理解できるように、力になれればとも思った」
(ちなみに「初老」は40歳だそうです)
そして晩年
1933年ドイツでヒトラーの政権が誕生すると前衛的な芸術作品と芸術家の排斥が始まり、ムンクの作品は、1937年に不道徳な作品として「退廃芸術」に指定されドイツ国内にあった作品82点は押収され、翌年競売にかけられてしまいます。
作品の破壊は免れて、何点かの作品はノルウェーに「帰国」したようです。
「退廃芸術」に指定されて3年後の1940年77歳の時、ドイツ軍がノルウェーに侵攻します。
ムンクの全作品はドイツ軍に押収されるだろうと囁かれるなか、予想に反してドイツ軍はムンクの絵を丁重に扱った為に、ムンクは「ナチスの協力者」と誤解されたそうです。
ドイツ軍からしてみれば芸術家たちからの激しい抵抗に遭う面倒を避けたに過ぎないのですが、「反ナチス」のムンクからすれば堪ったものではありません。
4年後の1944年1月23日
持病の気管支炎の悪化により自宅にて死去。享年80
亡くなる直前まで版画の制作をしていたそうです。
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