19世期の終わり頃のパリで画家になるための官制の美術学校に入学が許されるのは男性のみで、街の画塾でも女性を受け入れるところは多くはなかったようです。
そんな時代にベルト・モリゾが職業画家としての地歩を築いていけたのは、経済的に裕福で、芸術に理解のある両親と夫と仲間たちとの出会いに恵まれたからでしょう。
本人の才能と情熱と、自身に対する冷徹なストイックさがなければ恵まれた環境を生かすことはできなかったと思いますが。
ざっくりとベルトについて
本格的に絵画を志すようになってからの師匠ギシャール、続いてコローの教えから、古典に学ぶのではなく、戸外で日常や風景を描くようになるベルト(と一緒に絵画を学ぶ姉エドマ)。
その頃、その同じ時代に画家を志す幾人かの若い絵描きたちも、戸外で絵を制作します。
彼らもベルトも刻々と変化してゆく、光がもたらす色彩や空気感、水辺の景色に魅了され、見たままの「印象」を描き留めます。
それまでの価値観に縛られない彼らは出会い、「印象派展」を企画運営する仲間となり、ベルトと彼女の夫はグループの中心的な存在となって行きます。
1874年4月、第一回印象派展開催、12月にエドゥアール・マネの弟ウジェーヌと結婚
1878年娘ジュリーが生まれる。
1885年、2年前に完成したパリの自宅で、毎週木曜日に仲間たちを招待して夜会を開く。
ルノワール、ドガ、モネら印象派の画家たちや詩人マラルメなどが常連客となる。
1888-89年、ベルギーでの「二十人展」、ニューヨークの「印象派展」に参加。
この当たりから、画家として国内外で注目される一方、
これまでの「印象」を描写する表現をもとにした「構想画」に着手して行きます。
1892年、夫ウジェーヌ死去
結婚当初は夫に対して愛情が希薄だったとも言われてもいたようですが、妻の芸術活動に献身的(過ぎる?)であった夫が亡くなったとき、ベルトは、自分の人生も終わったような気持ちになったそうです。
厚い友情の「家族会」と亡き夫の「置き土産」
夫を失った悲しみに加えて、相続などの資産の問題もどうにかしなければなりません。
ウジェーヌは妻が創作に専念できるように家庭内の実務を全て一人でこなしていました。
夫亡き今、ベルトは絵を描くこと以外、自身が無力で孤独であることを強く感じます。
弁護士の協力で相続などの資産の問題は解決します。
それでも不安を拭えないのは、
今度は自分が死んでしまったら残されたジュリーはどうなってしまうのだろう、と考えてしまうのです。
その不安は自身の死が近いことの予感なのでしょうか・・・。
ベルトの意向に沿うようにドガ、モネ、ルノワールが家族会を構成して、マラルメがジュリーの後見人に選ばれます。
友人の画家たちは常にベルトを励まし支えるのです。
ウジェーヌは生前、妻の個展開催の準備を進めていて、開催の日取りを亡くなるひと月後に決めていたのです。
喪中ではあるものの、ベルトは予定通り個展を開催することにします。
1892年5月に開催された個展は批評家たちからも、概ね好意的な感想が寄せられ、
友人や、友人の友人にではあるものの、絵も買われて行きました。
若い娘たちと過ごす日々と臨終のとき
お父さんっ子だったジュリーは父親を失った衝撃はしばらく続き、ベルト自身も家族3人で過ごした場所は、ただ辛い思いが募るだけだったようです。
翌1893年、母子は思い出の沢山ある自宅を離れ、ウジェーヌが亡くなる半年前に家族3人で過ごすことを夢みて購入した屋敷を手放して、パリの人々の憩いの場ブーローニュの森に近いアパルトマンに移ります。
ベルトの姉(モリゾ家の長女)イブが亡くなり、その娘ジャンヌとポールを引き取ります。
ポールにはジュリーとともに本格的に絵画の手ほどきをしたようです。
ポールも職業画家を目指して絵を描いていて、以前からベルトとは絶えず手紙を交わしていたみたいです。
「大切な、大切な、とても大切なベルトおばさま」
と呼び敬愛していたようです。
こうして3人の若い娘たちと一緒に暮らしながら創作を続けます。
この頃は、家族の娘たち以外にも多くの少女たちをモデルに描かれた作品を残しています。
まだ二十歳にもならない子から、最年長の女性で30歳代でしょうか。
多くは名前の判明している娘さんですが、モデルが誰なのか今となっては判らない作品もあります。
老いを意識せざるを得ない年齢のベルトが描く娘たちは、青春の盛り、無邪気さ、日常の風景の中の、そこはかとない無意識的な官能・・・。
屋外で全裸で寝そべる少女や、メイクなど身支度をするプライベートで無防備なシチュエーションの女性たち。
ベルトおばさまに肌を晒した彼女たちの中にはジュリーの友達もいたそうです。
でも愛する実の娘を描いた絵で肌を晒したものはないようですね。
自身はストイックに創作に青春時代を費やした女性画家は若い娘たちに何を見るのでしょう
そういえばベルト・モリゾの作品にはウジェーヌを除けば、青年、成人男性は登場しませんね。
小さな男の子もあまり登場しませんね。
男性の存在は創作のインスピレーションにはならないのでしょうか。
ベルトは家族の中でも、男性陣である父や弟との関係はかなり冷淡だったといわれてもいますし。
青春の盛りの娘たちに囲まれ、仲間の画家ルノワール、ドガ、モネや詩人マラルメたちとの友情に支えられながら暮らし、絵を描き続ける穏やかな日々がしばらく続いたでしょう。
1895年
ジュリーがインフルエンザを患います。
回復しかける頃、今度は看病をしていたベルトにうつり肺炎になってしまいます。
容態は短い期間に悪化して亡くなります。
「私の可愛いジュリー、死んでも愛してる。あなたが結婚するまで生きていたかった」
亡くなる前日に書き取らせた遺書にそう記されていました。
自分が苦しむ姿を娘に見せたくなくて、亡くなる瞬間をジュリーには立ち合わせないようにしたそうです。
1895年3月2日永眠 享年54歳
その後のこと
ベルト・モリゾは義兄エドゥアールや夫ウジェーヌの眠るマネ家のお墓に埋葬されます。
亡くなって1年後の1896年3月5日、彼女を支えた友人の画家たちの主催で、「ベルト・モリゾ回顧展」が開催されます。
この展覧会の開催にあたって、ジュリーも母の作品の所有者に借用のお願いの手紙を送付したり運営に関わったそうです。
その後ジュリーはベルトが引き取った従姉妹たちと父母が建てた嘗ての自宅で生活を始め、21歳のとき、画家アンリ・ルアールの息子エルネストと結婚します。
その夫とともに、マネ、ドガ、そして母ベルトの大回顧展を組織して、1966年に亡くなるまで崇拝する母の作品を守り続けたそうです。
また、ベルトの亡くなる2年後、官制の美術学校エコール・デ・ボザールは女性への門戸を開きました。
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