”自分育て”で多忙な母親が子育てを放棄しなければ、息子の人生も違ったものになったでしょうか・・・。
自己中心的な我儘な母に育児放棄された寂しさ、孤独感から飲酒癖と奇行を繰り返すモーリス・ユトリロは17歳のときアルコール中毒患者として入院します。
医師は飲酒から気持ちを逸らすために絵を描かせてはどうかと、母親に提言します。
画家である母シュザンヌは自身の権威によって息子に無理矢理絵筆を持たせてみたところ、始めは仕方なく母の命令に従っていたモーリスも、いつしか自ら進んで描く様になっていくのでした。
この母子は絵の才能に恵まれていたのでしょうね。
母シュザンヌは、力強い描線のデッサンによる人物画を多く手掛け、対して息子は静謐で心象風景の様にも感じられる風景画(街景画)を多く残しているのですね。
- ユトリロ作品のパブリックドメインで使用できる画像を見つけられない為(2023年現在、没後70年を経てないからでしょうか)この記事にもユトリロ作品の画像は添えておりません。
絵を描いても酔いどれ
絵を描き出して間もない、ある1年間には150点の油彩やデッサンを残しているそうです。
絵は安価ですがモンマルトルの街で少しずつ売りに出されていきます。
街の額縁屋が僧院の壁にモーリスの作品を立て掛けて売っていたのが、歴とした画商のルイ・リボートの目に留まります。
後にまた、モーリスがアル中治療の為に療養所に入所することになった際に資金提供するのがリボートでした。
徐々に画業が板に着いてゆくユトリロですが、飲酒癖が治ることは無く、自分の絵を飲み代にして、相変わらずの飲んだくれです。
泥酔して街を徘徊しては絡まれ暴行される、しばらく後に注目の売れっ子画家になってもあまり尊敬された様子もないのです。
第一次世界大戦前後のユトリロ。地獄と光明
飲んだくれ青年が絵を描き出した頃、母シュザンヌは息子の友人ユテルとの愛慾の日々に溺れ、金持ち旦那様との13年にわたる結婚生活に終止符を撃たれます。
豊かなブルジョワ生活のお仕舞いも、同棲を始めた若い愛人との愛慾に満たされている元阿婆擦れ母さんにはあまり精神的ダメージはない様です。
一方でまたしても母の愛情を他の男に奪われたモーリスは、元巡査のゲーおやじが営む小料理屋の上階に移り住みます。
元巡査のおやっさんは、街の鼻つまみ者のモーリスを自分の息子の様に親身になって接したそうです、何故ですかね。
そのおやっさんが所有するもう一つの店、レストラン「ラ・ベル(美しい)・ガブリエル」の女店主マリー・ヴィジェもモーリスを気にかけ親しくなり、お店の屋根裏部屋をアトリエとして利用させていたそうです。
モーリスは店に入り浸り、マリーに特別な好意を抱いていたとか。
もっともマリーにしてみたらモーリスを本当のところは、どう思っていたのやら・・・。
暫くして第一次世界大戦が始まり、ユテルは召集され、翌年にはモーリスの子育てを押し付けられていた祖母マドレーヌが亡くなります。
兵役についたユテルは一度帰ってきた時にシュザンヌと結婚します。
モーリスも招集されますが、神経症で奇行の目立つ酔っ払いを兵役に着かせることはあり得ないでしょう。
男たちが戦場に送り出された街で、「僕も召集されたけど除隊させられたんだ!」と泥酔者が叫んだところで、残された女たちの視線は厳しいでしょう。
画商リボードとの契約が満了すれば絵を販売する手立ても無く無収入です。
おやっさんの店の二階で制作を続けるものの、深酒からアル中の症状が酷くなり入院及び転院を繰り返したそうです。
そんな時期にはモディリアーニやモディリアーニと契約していた画商と出会い、これをきっかけにまた少しずつ絵が買われ出し注目されていくのです。
戦争終結後、個展やグループ展(家族展)を開催したり、作品が高値で取引されたりと富と名声を手に入れたモーリスですが、泥酔状態で起こしてしまった軽犯罪から刑務所に勾留されます。
身請けした母シュザンヌと義父ユテルによって、自宅にほぼ幽閉状態で絵を制作します。
息子は囚人の様に自由を奪われた状況で絵を描かされ、母と義父は息子の稼ぎで贅沢三昧な生活だったそうです。
問題のある家族を目の届く範囲に置いておく、少々仕方ない面はあるのでしょうけど、この有り様は何なのでしょうね。
パリから離れた電気も通ってない古城に監視付きで追いやられた期間もあった様ですね。
母と義父からこんな扱いを受けていたこの頃、画家モーリス・ユトリロ の名声は高まるばかりでした。
初婚の新郎51歳、妻は12歳年上
1935年、母シュザンヌが尿毒症で入院します。
嫌でも自身の老いを自覚せざるを得ない状況で、ユトリロを結婚させようと考えたそうです。
なんでそんな心境になったのか、自己チューおばはんのことですから息子を思ってのことではない様な気がします。
ユトリロの稼ぎで街の名士気取りの夫ユテルは若い女にうつうをぬかし、妻に寄り付かなくなった様です。
結婚を機に自分たちの手を離れれば、ユトリロの稼ぎを手にすることが出来なくなるでしょう。
この元電気工の若い夫はきっと経済的に困ったことになるのでしょう。
ユテルにしてみれば、元々自己中心的な性格で、年齢を重ね尚更偏屈になった22歳も年上の妻と、アル中で奇行の絶えない義理の息子と日々過ごすのは相当キツいでしょうけど・・・。
シュザンヌが息子の結婚を考えたのは、夫に連む若い女への嫉妬心からなのでしょうかね、でも息子の富で贅沢三昧の生活してる見栄っ張りは自分も同じでは・・・。
シュザンヌは自分の絵のモデルを務める女性をユトリロと結婚させようとしたことがあったそうですが、富と名声があってもアル中の初老に嫁ぎたい人はいないでしょうね、ましてシュザンヌが義母になるなんて・・・。
以前から交流のある元舞台女優で銀行家の未亡人リュシー・ヴァロールとの結婚話が持ち上がります。
冗談から始まった話なのか、流石のシュザンヌも現実的にはためらった様ですが、ユトリロより12歳年上の未亡人はかっさらうようにユトリロを連れ去ってしまいます。
「やっと自由だ、神さまのおかげで結婚できる」と無邪気にはしゃぐユトリロ。
1935年モーリス・ユトリロ結婚、この時51歳。
でも喜びは束の間です。
リュシーは自己顕示欲の強い女でして、ユトリロはまたしても身近な人間のエゴに翻弄されボロボロに消耗する晩年を送ることになるのでした。
聖母とジャンヌと母に祈る、アル中画家にとっての女性とは
義父と母に自宅に幽閉状態にされたり、監視付きで古城に追いやられたりされていた頃から、ユトリロは聖母マリアやジャンヌ・ダルクに祈りを捧げ、洗礼を受けたいと願ったそうです。
49歳の時に洗礼を受けたのですね。
母の愛情を求めても与えられず、周囲から尊重されず嘲りと迫害しか受けない人生で、何かに救いを求めたくなるのは自然な事のようにも思えます。
少女の頃、教会の学校で反抗的は態度から退学をさせられ、神様を鼻で微笑って自由に生きてきた母親とは対照的ですね。
結婚後、パリ西郊の高級住宅地に構えた館内に設けた祭壇には母から与えられたジャンヌ・ダルクの小像と聖母マリアと母シュザンヌの肖像が飾られ、毎日6・7時間祈りを捧げていたのだとか。
ユトリロにとっての女性は憎悪の対象だったようです。
街中で若い女性や、男と連れ立っている女性を見るや毎度、凶暴な罵詈雑言を叫んだようです。
反面、聖母マリアやジャンヌ・ダルクに祈りを捧げるのは女性-母性の愛情を求めている様にも思えます。
女性に凶暴な態度になるのは、男の子が気になっている女の子に意地悪したり悪口を言ったりして気を引こうとしてる風にも思えなくもないですが、女性に罵詈雑言を浴びせる飲んだくれがモテるわけないでしょう。
そんなですから現実の世界で愛情を示してくれる母性に出会えないでしょう。
母からどんな酷い扱いをされても、
「母は聖母」
と言い続けた息子。
その母が脳出血で死去(1938年、享年72)
ユトリロにとっては、神経の発作を起こすくらいの衝撃で、その後虚脱状態を抜け出せず、葬儀に参列が出来なかったようです。
ユトリロ自身は1955年南仏のホテルに滞在中に肺充血で亡くなります。
享年71歳
心は、母の愛情を求め続ける幼子のままで生涯を送った印象です。