官能的で艶かしい絵でも、古典や神話をモチーフにして、絵に登場する人物を「神様」だよと言い張り、小さな翼を付けた赤ちゃんを配置すれば
「素晴らしい芸術」と称賛されるのに、
日常をモチーフにヌードを描くと「猥褻」「醜悪な趣味」「下品」と断罪されて嘲笑されてしまう時代。
本当はみんなそんな猥褻なものを見たくて仕方ないのに、本音とは裏腹、芸術という言い訳を必要としていたのではないのかなぁ、と想像すると滑稽でもあるのですが。
そんな時代に「草上の昼食」や「オランピア」を描き世間を騒がせたマネを、スキャンダラスな画家と想像してしまうものですよね。
マネは生まれついての反逆児なの?
エドゥアール・マネは1832年1月23日パリに生まれます。
父オーギュストは法務省の高級官僚で、裕福なブルジョワジーですね。
父は長男であるエドゥアールには一族の仕事を継いで欲しかった様ですが、
エドゥアールは、芸術家肌の母方の叔父フルニエ大尉からデッサンの手解きう受けたり、二人の弟と同級生のアントナン・プルーストとともに美術館に連れて行ってもらったりして、芸術に興味を持つ様になった様です。
フルニエ大尉は甥っ子のデッサンの能力を見て絵画教室に通わせます。
こうした状況でエドゥアールは画家になりたい気持ちを父に打ち明けていた様です。
父は、長男の絵描きになりたい夢を遠ざけ、司法官にさせる望みが上手く行かず、海軍兵学校入学に入学させようとするも、これも失敗します。
1848年、今度はエドヴァールを実習船の見習い船員として乗船させます。
ブラジル、リオ・デ・ジャネイロに向かう半年近い航海で、16歳のエドゥアール少年は様々な世界を観て、精神的にも鍛えられた様です。
昼夜を問わず海や地平線を眺める毎日、
リオ・デ・ジャネイロでは現地の美しい女性たちや、奴隷市場で売買される黒人たちを目撃して不快な衝撃を受けた様です。
これらの見聞は後の創作に大いに影響するのでしょう。
帰国後、再び受けた海軍兵学校の入学試験にまたしても失敗します。
父親も出来の悪い息子に法律関係の仕事をさせる希望を諦めて、画家になる夢を許します。
1849年から、歴史画家トマ・クチュールのアトリエに弟子入りします。
歴史画家として成功を収めていたトマ・クチュールですが、そのタッチはあまり伝統的、古典的ではないと世間では観られていた様です。
それでも、(そうであるからこそ?)マネはクチュールのアトリエを学びの場として選択して6年間ここで腕を磨いていきます。
そして少年マネはどこへ行っても反抗的だった様です。
かつて叔父が費用を出して通わせてもらった画塾でもトマ・クチュールのアトリエでも自分勝手なことします。
弟子の中で最も才能がありながら、最も厄介な反抗児はアトリエを追い出されます。
1856年にトマ・クチュールのアトリエを去る前後の年にはルーブル美術館や旅先の美術館で名画の模写に勤しみます。
ルーブル美術館ではラトゥールやドガ、多くの友人と知り合うことになります。
1859年「アブサンを飲む男」で初めてサロンに出品し、落選します。
下描きの様な筆致と神話や古典に題材をとらず、現実のあるがままを表現したこの作品は、サロンには相応しくないと判断されたらしいです。
1861年にサロンに送った二作が佳作入選となるものの、その後は何度も出品を拒否されて、
「最も有名な落選者」
と広く認知されることになります。
特に、「水浴(草上の昼食)」(1863年)と「オランピア」(1865年)は世間にスキャンダルを巻き起こします。
ドラクロワや詩人ボードレールの様な支持者だっているのですが・・・。
それでもマネは自分の表現を変えることなくサロンに挑み続けます。
「自分自身であるべきだ」
そう言う友人ボードレールにマネは、「それはいつも、僕が君に言っていることじゃないか」と返したそうです。
そうは言っても、「オランピア」を酷評された直後には、ボードレールに送った手紙で、相当凹んだ心境を綴っていた様です。
現代人からすれば、何故そこまでと思えるくらいに、マネの作品は当時は揶揄われ、酷評されていたのですね。
隠し妻? シュザンヌ・レーンホフ
反逆児の気質を備えるマネは自身の才能に絶対の自身を持っている様で、どこかしら図々しく、辛辣な話し方をする気障な人物だったそうです。
その反面、傷つきやすく、物腰の柔らかで、友人も多く、下の世代の画家たちからも慕われていた様です。
そして、女好きで浮気性。
あるとき、街で見かけた、細身の可愛らしい娘の後と付けていたマネは、偶然妻と出くわしました。
「やっと捕まえた、今度こそ現場を押さえましたわ」と言う妻に、
「やあ、おかしいな、あの娘はお前だと思ったのさ」と返したとか。
そんな子供じみた言い訳を、豊満な妻は穏やかに楽しそうに笑って聞いたそうです。
その妻シュザンヌ・レーンホフとマネの出会いは、1849年、トマ・クチュールのアトリエで画家修行を始めた頃です。
マネの弟たちにピアノを教えていた先生でした。
マネは自分のアトリエの近くに、誰にも気付かれない様に、自分で家具を買い揃えた家にこっそり住まわせ愛人にした様です。
19歳で2歳年上のピアノ教師を愛人にする。
画家修行を開始したばかりでも経済的に豊かだと、こんなこともできちゃうのですね。
このことは両親も友人も誰一人知ることなく隠し続けられたそうで、父親の死後1863年、正式に結婚をします。
当然周囲は驚いたそうです。
結婚後夫婦はマネの母親と同居しています。家庭は円満だった様です。
それはシュザンヌの人柄に負うところがあったのでしょうか。
シュザンヌはオランダ出身、
二人の兄は彫刻家と画家で、姉二人もそれぞれ彫刻家と画家に嫁いだそうです。
親はオルガン奏者で、シュザンヌ自身優れたピアニストで芸術一家なのです。
穏やかで良識があり、親切で陽気で、音楽の才能に恵まれた太陽の様な人。
色事を求めて しょっちゅう街を徘徊し、無邪気に浮気を繰り返す夫を、嫉妬した様子もなく放任する彼女を、夫婦の友人の一人は、
「豊満で穏やかなマネ夫人は、華奢なパリの娘の様なところが全くない」と言ったそうです。
様々な相手との女遊びを止めないマネではありますが、母性溢れる妻シュザンヌに対して常に愛情を示し続けていた様です。
謎の少年レオン
太陽の様な大らかなシュザンヌではありますが、彼女にも秘密があります。
一つは前述の通りマネと正式に結婚をする以前に13年に及ぶ愛人だったこと。
もう一つは、シュザンヌと一緒に “隠れ家”で暮らしていた子供の存在です。
名はレオン。
1852年、マネ20歳の誕生日の数日後に誕生した様です。
洗礼名はエドゥアール。
1855年マネはこの子の代父になり、シュザンヌとの正式な結婚を機に、皆には妻の弟として紹介した様です。
マネはレオンを実の息子の様に育てますが認知はしなかったそうです。
何故?
自分の実の子ではない可能性?
レオン当人も兵役時初めて知ることになる、
身分証書には、”姉”と同じ「レーンホフ」姓ではなく、「クーラ」と記され、
軍隊登録簿には「シュザンヌ・レーンホフとクーラの間に生まれた息子」と記載されているそうです。
クーラとは誰?
マネと二人の弟は父の遺産により働く必要がなく、マネは画業にし専念しているのですが、レオンは働きに出します。
友人の画家エドガー・ドガの父の元で、パリ証券取引所で使い走りの書生し、後に銀行に移り出世します。
成した財で自身の銀行を設立するのは、代父マネが亡くなる2年前のことです。
気骨ある画家は名誉欲に取り憑かれていたのかな?
マネに好意的な人々はマネを、「印象派の祖(父)」、屋外で絵を描いた先駆けであると伝えたい様です。
実際にはマネは簡単なスケッチを除けば作品制作はアトリエで行っていたとか。
印象派の画家たちと行動を共にすることはなくて、あくまでサロン入選に拘り続けるのですね。
栄光に包まれた公認の画家という名誉を自分を曲げることなく掴み取る戦い。
それは名誉欲に憑かれている様にも、意固地になっている様にも見えるのですが。
画家になることを渋々承諾した父親は、一つの条件、約束を息子に課したと言います。
それは、
サロンなどの公的機関に名を刻むこと、不動の名誉ある大画家になること、そして真剣であること。
サロンへの拘りは父との約束を果たす為だったのでしょうか。
でも、ベルト・モリゾが印象派の展覧会への参加を決めたとき止めようとしたのは何故ですかね・・・、わかりません。